東京大学、AMSEA、ジュディス・バトラー「Bodies That Still Matter(それでも重要な諸身体)」

メモです、感想です。

バトラー、読んだ事は無いから解釈過多ですが、まずクィアスタディーズ、ジェンダー論に依拠していて、それに実存主義とは異なる方法での社会的連帯を指向する感じ?

ヒューマニズムという理想ではなく、目の前にある身体をこそ問題提起のきっかけとする。始まりはジェンダーだが、社会的連帯の成立にそのまま繋がる。
感銘を受けたのは、単独の身体なんてありえない、物理的なインフラと精神的なインフラにより支えられているのだから単独の身体ではなく、そこにあるのは複数形の諸身体である基礎づけ。それを相互依存の諸身体と呼んでいた。個人的に自己責任論の打破として興味深い理論。

自分は努力によって成功した、失敗者達は努力が足りないという言明の主体は、その努力を可能にした文化資本への認識の欠如や、その成功は「他者の生を失敗とラベリングすることを正当化しない」、という批判に対して、
「私の人生は私のものであり、貴方の考え方を押し付けられる言われがない」という平行な構図を描かれるのだが、
あなた以外の身体=命によりそれが成り立っている事を論理立てられれば、
個人の自由が適用されない領域に下ろせる可能性があるのではなかろうかという印象。

あとは冒頭に、悲観可能性grievabilityというオリジナルの概念の話をしていた。生物学的な意味ではない「生」とは悲観可能なものであり、悲観不可能なものもはそのような意味での「死」である。それは諸構造により「生」が剥奪されている「死」んだ命であり、彼らはパレスチナやフェミニズム、あるいはパリやアメリカで、生身の身体を曝け出し、それに抵抗しているという話。逆に言えば、生きている「死」もある。逝去したブッシュ大統領や、キング牧師や偉人たちは、死者として生き続けている。
悲観不可能性の最たる例として、ドイツにおける哀悼の不可能性(The Inability to Mourn: Principles of Collective Behavior,Alexander & Margarete)の話をしていた。
ナチによる破壊、またナチを全面的否定する歴史=メランコリーは、あらゆるものを拒絶し、そこでは喪失が認められず哀悼が不可能=悲観不可能な状態。

ドイツにおけるナチに関わったものの扱いは風聞程度にしか耳にしてないから誤ってるかもしませんが、ナチスは絶対悪、ヒットラーを始め幹部や虐殺に関与したものも絶対悪。
しかしその凡庸なる悪に加担した者にも、その死を悼む家族や友人が居るのでは?って話かなーそれこそナチスを生んだのは構造、脱構築でヒットラー擁護とかないんかなーデリダ先生がすんなすんな言うてたけど

日本におけるデモの方法論僕は大嫌いなので物凄い否定的に見ていたけど、友人が興味を持つ「デモの身体性」みたいなのは少しわかった気がする。grievabilityに関しては未整理だった印象。
諸構造により生=被悲観可能性を剥奪されている者達、抵抗運動は畢竟、「我々は存在しているのだ!」という叫び。フェミニズムもマイノリティも領土民族運動も、共通しているのはその叫び。誰によって剥奪されていると言うべきか。
史的唯物論的な、史的な唯、身体があるという立場。これが強いのって全ての運動を肯定出来る所なんだよなあ。ただもちろん、危険なものでもある、当然。

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