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対象の大きさを意識して喋る

これは自分が出来ているという話ではなく、まだまだ出来ていない自分への自戒の記事でもあります。

去年の1/1。今年のテーマは「境界」にしようと思った。ゲームAIを研究しながら、人をも覆い尽くして、はみ出せるような存在になりうるAI開発を目指すメタAIマッドサイエンティストとしては、常に『知能とAIの境界線』を意識していたから。
そして「国と国の境界線」など本当は何も無いのに人間が勝手に引いてしまう境界線などにも興味があった。
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こうして何かを書いていると、ふと気がつくと対象が膨らんでいる事がある。
私の話、個人の話をしていたのに、いつの間にか主語が"私たち"になってしまっていたりする。
話題の対象を〇〇な人達とラベル付けしてしまっている。
特定の個人の話だったのに"女性"として話してしまっている。

気が付くとそうなってしまっているのだけれど、本来使うべき対象を指す言葉は何処までも固有名詞のはず。名前のはずだ。
〇〇さんの話をしている時に、女性と置き換えると一気に話が膨らんでしまう。目の前の2人を指して男性と言うのも危ない。〇〇さんと△△さんの話をしているのならそう呼ぶべきだ。〇〇さんと△△さんは…と。

ヘイトクライム、Black Lives Matterやアジアンヘイトの話にしても、

"黒人の" "男性が" "アジア系の" "女性に" 暴行した。

と表現される。

しかし、
黒人だから暴行したのか?男性だから暴行したのか?
アジア系だから暴行されたのか?女性だから暴行されたのか?

対象が無意識に大きくなっている表現に、意識的にならなければいけないのではないか。

報道は常に恣意的だ。
そこにはその記事を作った人の意図がある。

日本国内で、高齢の方が4人の犯罪者に殺害されたとする。
(※これは空想の事件であり、実在のいかなる存在とも関係ありません)


「△△さんが□1容疑者、□2容疑者、□3容疑者、□4容疑者に殺害された。」

なぜこの表現ではダメなのか。


「〇〇県〇〇市で高齢男性△△さん(85歳)が□□国籍の4人組男性に目隠しの上滅多刺しで殺害されるという事件が起きました。」

なぜ国籍を書く必要があったのか。
□□国にグループの本部があり、関係を調査しているという情報を伝える必要があれば必要かもしれない。
犯人が逮捕されておらず再犯の危険性があるなら、日本語スピーカーが多い日本国内においては、犯人が話す言語が危険を察知するヒントになる可能性もなくはない。
(もちろん、過度な反応は犯人以外の同言語スピーカーを不快にさせてしまう)

危険周知の意図がないなら、
なぜ①ではダメなのか。

報道は常に恣意的である。
資本主義下の報道は他社よりもインパクトが求められる。刺激が求められる。
分かったことは1つ残らず書くことで、他よりも情報量で上回ろうとしているのかもしれない。
そこに作り出されている対象の境界に敏感にならなければいけないのではないだろうか。

守る対象を1度に指定したい時はある。
Blackとして、アジアンとして、その人々全員を守る為に、意識的に使われる場合がある。
コレについては誰も被害者はおらず、正当な意図に基づいた表現である。
その中の多様性さえ否定しなければ、問題ない用法だろう。

綺麗事ではある。
けれど綺麗な状態を知らなければ、それが汚れていることに気付けない。

つい日本人は~とか、男性は~と口にしてしまう。
その度に気づき次第、出来るだけ速やかに修正するよう心掛けているつもりだ。
まだまだ道半ばだけれど。

一人一人は「境界」に包まれている。これは身体という物理的な境界が事実としてある。
しかし、それ以上は、2人以上は全て人間が設定した「境界」を使った表現である。

主語は大きくなり過ぎていないか、
対象が大きくなりすぎていないか、
2人以上を一纏めに扱った瞬間に、その危険性を意識するべきではないだろうか。

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三国国境展望台の風景のフリー素材
https://www.pakutaso.com/20200317069post-26135.html

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