解釈―『中動態の世界』③哲学的側面からみた『中動態』
第一部では本書の大筋を捉え、前回である第二部では主人公である『中動態』を言語学的側面から述べられている部分について解釈した。
この第三部では哲学的側面から論じられている部分を解釈していこうと思う。
『中動態』とは何かを説明するにあたって、著者は3人の哲学者と彼らに対応する概念を取り上げている。
1つ目はハイデッガーの「放下」、2つ目はドゥルーズの「出来事」、3つ目はスピノザの「中動態的存在論」である。
それぞれの観点から哲学的側面から『中動態』とは何かのイメージを掴んでいこう。
ハイデッガーの「放下」
『中動態』に通づる概念として取り上げられたハイデッガーの「放下」とは、「泰然自若」や「委ねられた状態」と訳される。
それは「『引き起こす』や『目覚めさせる』などとは考えてはいけない」もので、「主体と客体の構図で考えてはいけない」もので、とはいえ「成り行き任せにするものでもない」。
そして何より「意思の領域に属していない」ものである。
ドゥルーズの「出来事」
ドゥルーズの「出来事」とは、深さ・厚みをもった物体が新しい属性を付与されるとき、その存在の表面に起こることと説明される。
例えば「肉が切り裂かれた」という事象があったとき、”肉”という深さ・厚みをもった物体には変わりなく、「切り裂かれた」という属性が付与されるといった具合である。
この「出来事」は能動でも受動でもない。だがこれが行為者が前提になると途端に能動/受動が顕れる。
スピノザの「中動態的存在論」
中動態的存在論はスピノザ自身が名乗ったものではなく、別の哲学者アガンベンが「いわゆる能動/受動の対では説明できないものであって、これは『中動態的存在論』としてしか理解できないと主張している」ものである。
その内容は以下のとおり。
”存在する全ての物は自然の本性を一定の仕方で表現する。
原因と結果の関係は「働きかける/働きを受ける」という関係をやめ、「原因が結果において自らの本性を表現する」という関係になる。
つまり行為・思考(結果)は本性(原因)を表現するものである。
この中動態の世界では、能動とは「する」ではなく、「行為・思考が充分に本性を表現している」ことを指し、受動とは「される」ではなく、「行為・思考が本性より外部刺激に圧倒されている」ことを指す。
故に中動態の世界では能動は自由であり、反対に受動とは強制である。”
キーワード
本書は哲学書の中でも読みやすい部類だとは思うが、それでもやはり哲学というジャンル自体そもそも難解であることは否めないので、もしかしたら理解が難しい部分があったかもしれない。
よってざっくり『中動態』をイメージするのに役立つキーワードを2つ挙げておく。
①意思は関係しない。
②能動でも受動でもない。もしくは能動でも受動でもある。
このキーワードを踏まえて、次回である最後となる第四部では僕なりの言葉で中動態の世界の説明を試みようと思う。
<前回まで>
<つづき>
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