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解釈―『中動態の世界』①イントロ
読んでいる途中で何度も「めちゃくちゃ面白い」と独り言ちてしまった。
哲学書であり、旅行記であり、ミステリであり、格闘技の試合のような。
そんな本だ。
一度読んだ後にもっと理解に近づきたくて、あるいは解釈を進めたくてノートにメモを書き込みながら2週目に入った。
僕が本を2回読むこと自体珍しいが、かつノートにメモを取ったのは今まで『現代の経営』『お金2.0』『中庸』ぐらいだ。それぐらい面白かった。
タイトルにもある『中動態』とは文法の「能動態」「受動態」との相対としての概念である。
本書はアルコール依存症者との対話場面から始まる。この箇所が本書で最も重要な部分だ。ここから難解な旅に出かけ、何度も迷子になるのだが、そんなときはいつもこの対話に戻るのである。
この対話が本書の道標である。そこにはこう書いてある。
どうも世界にはうまく理解・説明できない事象が存在するみたいだ。これって何なのだろう?
先の対話場面に出てくるアルコール依存症者が示唆をくれる。「しゃべっている言葉が違う」と。
そこから著者は言語学と哲学の世界に旅を始める。
現代世界には能動態と受動態しかない。しかし、そのことこそがこのうまく理解できない事象を生み出しているのではないか。能動と受動では説明できないものがあるのではないか。と。
ここで何故言語学の世界に行くのか疑問に思う人もいると思う。わざわざ(悪い意味で)アカデミックにしなくてもいいのではないかと。
そこに対しては明確な答えが示されている。
曰く「言語は思考の可能性を規定する」からだと。つまり、僕達はものを考えるとき無意識に頭の中で普段使っている言語を用いて思考するから、使っている言葉によって思考の可能性が広がりもすれば狭まりもするということだ。
もう一度言い換えると、僕達が普段用いている言語は能動態と受動態しかない。ということは僕達は能動と受動でしか思考していないということだ。そしてそれだけではうまく理解できない事象が存在している。
ということは世界には能動でも受動でもないものがあるのではないか。
それが『中動態』という失われた言語態であり、この『中動態』を用いたときこの世界はどう見えるのか、というのが本書の大筋である。
ちなみにこの『中動態』という言葉は一見すると「能動と受動の中間のもの」というイメージを持ちやすい。本書でもその問いが発せられているが全く違うものだ。そこが面白い。
というところで本書のイントロは終わり、第二部ではこの『中動態』を言語学的の側面から見た部分について解釈していきたい。
<つづき>
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