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「科学的検証」の限界と「ならわし」の合理性を知って妥当な行動を決める

現在、科学的検証によるエビデンスが高く評価され過ぎ、一方で古くからの「ならわし」は科学的根拠がないと過小評価されているように私は感じています。
ここ100年くらいの間、科学の力で人々の日々の営みは大きな変化を続けています。特にこの数十年の変化は激しく、行動のガイドラインがすっかり見えなくなっています。
現代の状況では、「変わらないこと」に基準を置いて、変わった環境」を分析し、「ならわし」を修正するか「環境」を修正することが、妥当な行動のガイドラインになるのではないかと考えています。
この考えを書き留めておきます。

■科学的検証の限界

科学的検証とは、「自然の法則の1つを明らかにする」ためのものと認識しています。
科学的検証では、あるテーマに関する自然の法則の1つを仮説として立て、観察(測定)・実験・思考によって仮説を検証します。つまり科学的検証で確認できるのは「1つの仮説」だけです。

例えば「新生児期(生後28日未満)の明暗によって睡眠サイクルができる」という仮説を立て、それを検証することを考えてみましょう。明暗以外の温度、姿勢、親の関わり、睡眠以外の活動、子の日齢、遺伝子情報などなど、考えられる限りの条件を一緒にして実験あるいは観察(測定)することになります。しかも「睡眠サイクルの獲得」となると、数週間から数カ月はその状態を続けなければなりません。

2つの実験対象(この場合は新生児)で明暗以外の条件を完全に一緒にして4週間過ごすことなど100%不可能です。
ですから、たくさんの実験対象に対して、睡眠に関係のありそうな要因をできるだけ多く観察(測定)します。得られたデータに対して、統計学の知見を用いて「明暗」がどの程度睡眠サイクルの獲得に影響があるかを検証し、「意味のある差」の有無で仮説の確からしさという結果を導き出します。検証結果は、例えば「1%間違う確率を含んで仮説は正しい」といったものになります。

科学的検証では、1つの仮説を検証するだけでも大仕事です。
特に「子どもの発達」といった分野では、数年から数十年といった長期的な評価が必要になりますから、精度の高い検証をすることはとても困難です。
睡眠のように日常的で多様な要素が関係するテーマを、数十年かけて検証しても、ようやく得られる結果は大抵の場合「よくわかりませんでした」になってしまうでしょう。仮に1つの仮説が検証されたところで、多様な要因のたった1つのことを説明したにすぎません。

さらに新生児や乳児に関わるテーマは、実験や観察が対象に大きな影響を与えてしまうので、科学的検証そのものが非常に困難になります。恐らく正常な出産での新生児期の睡眠に関する科学的な研究事例は極めて少ないと思います。

生活習慣など日常的なことで多様な要因が含まれ、発達のように影響の評価に長い時間を要することを論ずるには、科学的検証は必ずしも適しているとは言えません。多面的な検証の一つの要素という程度の見方が妥当ではないかと思います。

■「ならわし」の合理性

「ならわし」を辞書でひくと「 しきたり。習慣。風習。」とあります。
私は「古くから繰り返し行われてきて定着したもの」と理解しています。「ならわし」は、日常生活のさまざまな場面で私たちの行動を決定しています。

布を体にまとう。固定した屋根の下に棲みつく。家族で食事を食べる。
明るくなったら起き一日が始まる。顔を洗う。人に会うと挨拶する。
明るい間働く。暗くなったら一日が終わる。体を清める。
暗くなったら寝る。横になって寝る。布団を被って寝る。

「ならわし」には地域独自のものもあれば、人類に広く共通しているものもあります。数百年どころか数千年、数万年と続いているものも多いでしょう。その一部は「文化」と呼ばれます。

そして「ならわし」の多くは、「なぜ、そうするの?」と理由を問われても「昔からそうだから」「みんなやってることだから」としか答えようがないことがほとんどです。

では、科学的な合理性がないのでしょうか?
「ならわし」の多くは、道理にかなっており、無駄がなく能率的です。
なぜなら「ならわし」は、自然の法則にしたがう「世界」という実験場で、何千万人もの人々が何世代にもわたって行動を決定し(実験です)、そのたびに文字通り命を懸けて検証し、それを繰り返すことで得られた行動のガイドラインだからです。

「ならわし」が作られていくプロセスは、科学的帰納そのものです。帰納のための事例は何千万、何億とあり、数百年、数千年と十分な期間を取って評価されたものですから、数十年の評価を要する発達に関するようなテーマでも確度の高い検証結果だと言えるでしょう。

実際、生活習慣に関わる科学的な研究ではその多くが、昔ながらの「ならわし」に従った行動が科学的にも正しかったと結論づけています。
つまり「ならわし」は、科学的な合理性のある行動のガイドラインと考えられます。

■検証期間としての「昔から」

「ならわし」の合理性を論ずるには、「昔からそうだった」の「昔」がどの程度の期間なのかが重要な要素になります。1つの結果が出るまでの期間を1サイクルと考えて、数回サイクルが回った程度では十分に合理的な検証とはならないでしょう。

「子どもの発達」に関わることであれば、1サイクルは成人するまでの期間の20年程度とみるのが適切だと思います。「昔から」が数百年以上であれば子どもの発達への評価期間として十分でしょう。しかし100年程度ではまだ十分とは言えず、検証の途上にあると考えたほうが良いでしょう。

例えば日本の学校教育は学校制度の始まりからでも150年程度、現代の「6・3・3・4制」の学校教育制度だと70年程度です。ですから、「昔から」の学校制度でも、子どもの発達の視点から見ればまだ十分な検証を経てないものと言えるでしょう。「子どもが学ぶ」ということに関してなら、学校教育以前に何百年も続いていた、かつての家庭や地域での伝承のほうが合理性が高いのかもしれません。

■環境の変化と失われる行動のガイドライン

数百年の検証を経て得られた「ならわし」の合理性は、それまで以上の環境変化が起きた場合には失われてしまう可能性があります。変化後の環境では「ならわし」に従った行動ができなくなったり、「ならわし」通りの結果が得られなくなる状況が生じるということです。

そのようなとき、人々は「ならわし」とは少し異なる様々な行動を試し、環境の変化に適合する行動が残り、そうでない行動は淘汰されていきます。淘汰は「命を落とす」という形かもしれません。このような検証を経て修正された「ならわし」が再び合理性を獲得するのでしょう。

では、環境の変化が連続する状況では何が起きるのでしょうか。

「ならわし」が修正を受け、合理性を再獲得することは不可能になるでしょう。修正した行動を試し、その結果を得るサイクルが回ったころには、次の環境変化が起きているからです。
これは「ならわし」という人が行動を決める合理的なガイドラインを失うということです。

現在、科学技術の力は、人が生活する環境を短い間隔で変化させ続けています。
200年前にはあり得なかった「昼のように明るい夜」が、当然のことになっています。同じく200年前1日30~40km程度だった移動距離は1000倍にもなっています。30年前と比べても個人が知りうる情報の量は数億倍に膨れ上がっています。20年前には誰も考えなかった「幼児が全世界の人々に自分の姿や言葉を届ける」ことが日常的に行われています。10年前にはファンタジーに過ぎなかったAIとの生活が現実のものになっています。

私たちは激しすぎる環境の変化のなかで、「ならわし」による行動のガイドラインを切り捨て、代わりに世界を変えている原動力の「科学」に行動のガイドラインを求めているのだと思います。
ところが、科学、特に科学的検証には前述のとおりの限界があります。日常的な行動を、科学的検証を根拠に決めようとすると、検証に時間のかかる「発達」といった項目は除外され、短絡的で偏りのあるリスクの高いものになりかねません。

■環境の変化に対応する妥当な行動の決め方

「科学的検証」の限界を知り「ならわし」の合理性を適切に評価すると、環境が変化する中で日常の営みに関する行動を決めるには、以下のようにすればよいという考えに至りました。

「変わらないこと」に基準を置いて、変わった環境」を分析し、「ならわし」を修正するか「環境」を修正する

まず「変わらないこと」・・・<原理><原則><短期間では変わらないこと><変えないほうがよいこと>を考察して判断の基準とします。
例えば「子どもの発達過程」は人間という種の進化の過程で積み重ねられたものです。「運動器のメカニズム」は物理法則に従っています。いずれも数百年、数千年で簡単に変わるものではありません。

次に「ならわし」が通用していた「環境」と今の「環境」で変わった点・・・<何が違うか><どのように違うか><どのくらい違うか>を分析します。
環境の変化は主に「科学技術が作り出した道具」によって起きています。
・道具の使用による生活行動の変化
・道具の使用で起きた人間社会の変化
・道具の使用で自然環境に起きた変化
が主な変化でしょう。

変わらない判断基準と変化した環境をもとに、「ならわし」を起点にして何をどのように変えて行動するか考えます。
「ならわし」の中で、変えてよいと確信のあることのみ変え、それで環境の変化に対応できるならそのように行動すればよいでしょう。
変えてはならないことまで変えなければ環境の変化に対応できないようなら、「環境」を変える(大抵の場合は変化が小さくなるように変える)ように行動するのが妥当でしょう。

とはいえ後者の状況で「環境」が変えられず、変えてはならないことまで変えて行動する場合が出てきます。その場合には相応のダメージがあると考えましょう。行動後のダメージを掛け値なく評価して回復の対応をしなければ、ダメージが蓄積して何らかの犠牲が出る危険性があります。

※中島みゆきの「世情」など聞きつつお読みください。https://music.oricon.co.jp/php/lyrics/LyricsDisp.php?music=26610

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