スポーツ嫌いと拗れた自意識


テレビをつけると、白い水飛沫をあげて泳ぐ選手が映し出される。朝の情報番組では、前日にあった競泳男子が特集されていた。
美しく力強いフォームだと分かるのは、小・中学生の頃いちおう競泳をやっていたからだ。しかし競泳選手の名前はあまり知らない。
声を張り上げて緊迫感を伝える実況の声は、朝の耳には少ししんどい。背後の大きな歓声は一色に聞こえるが、分解したらいろんな国の言語が飛び交っているんだろう。その映像の上からさらに、競技の結果を読む番組司会の声が重なる。音の大渋滞だ。
数週間前から、どのテレビ番組をつけてもオリンピックの試合や選手たちの話で持ちきりである。
テレビから目を離し、スマホでニュースアプリを開くも、3本に1本はオリンピックに関する記事が並ぶ。それらを避けて選んで主要ニュースだけを読んでいたはずが、気づいたら射撃の無課金おじさんについての記事を読んでいた。

スポーツが嫌いだ。スポーツ観戦も嫌い。
オリンピックに限った話じゃなくて、ワールドカップとか世界陸上とか甲子園とかも。多くの人が熱狂する大きな大会の開催期間は、なんとなく居心地の悪さを感じる。

「オリンピック見てる?」
ほら、雑談の始まりはこればかりだ。
「全然見てないです」
会話終了。

いい大人なので、それがコミュニケーションのための会話のきっかけであり、相手の気遣いだということは分かる。
しかし同時に「誰もがスポーツに関心あるなんて思うなよ。」と謎の反抗心も生まれる。

まずスポーツが嫌いな理由。
私は子どもの頃から超絶怒涛が付くほどの運動音痴で、スポーツ全般、主に体育の授業やレクリエーション、球技大会、習い事の水泳に付随する嫌な思い出がたくさんあるからだ。

特にドッジボールとかバスケとか、チームで勝利を目指すスポーツが大嫌い。なのに教師は大抵、チームワークが大切云々言って進んで取り入れてくる。
団体競技は、どこにどう動けばいいのか分からないし、ボールが取れないからひたすら怖い。全くできないから、先生からクラスメイトの前で怒られる。クラスメイトから笑われる。萎縮してさらに動けなくなる。頭はパニック。今度はクラスメイトに怒られる。全方位から呆れられる。でもどこにも逃げられない。ボールが来ても受け止められないから痛い思いばかり。もはやトラウマだ。
体育教師と運動部ってだいたい性格悪いよね。
動けない人間見定めて攻撃してくるんだから。
運動できる奴は皆んな敵だと思ってた。
あんなクズ人間にはなるまいと、体育の授業中は協力体制を放棄した。コートの隅で何もしない。ボールは取らずともキャーキャー走り回る可愛い手段もあったが、そういうキャラではないし、教師が求める姿を示してるみたいで癪だった。なんで苦手なことを得意なやつに合わせて動かなきゃいけないんだ?
そうやって求められることの反対のことをして、息のしやすい場所を探していた。
そうすると必然的に私は悪になる。
運動が得意な人間は目に見えて正しい。この世界は強いことも頭の回転が速いことも器用なことも、正義なのだ。
ふざけんな。

スポーツ観戦が嫌いな理由はいくつかある。
選手たちが放つ迫力や、勝ちたいという剥き出しの野心が画面越しに伝わってきて神経がピリピリするから嫌だ。
観客の応援の声とか、実況の声がうるさいのも嫌。
選手を好き勝手応援したり批判したりする人にもイライラする。
世界大会では、「日本」を背負った選手たちを「日本人皆」で応援して然るべき、みたいなナショナリズムが蔓延るのも気持ち悪い。
そうやって選手個人に国の威信をかけて、勝利したら「日本人すごい」になるのも、選手を神格化して持て囃すのも違和感がある。
実際そのスポーツが好きで応援してる人たちは、純粋に観戦を楽しんでいて、日本がどうとかそんなこと考えてないだろうから、こういう雰囲気を作ってるのは大方メディアのせいなんだろうと思う。

さらに言えば、メダル獲得数の多い国はいつも同じ顔ぶれなのも、結局スポーツの強さはその国の豊かさと直結している気がして全然フェアとは言えないこととか、平和の祭典なんて言われてるけれども、同時に流れてくるウクライナやガザの悲惨なニュースを見ると、平和のために今は他にやるべきことがあるんじゃないかとか考えて、モヤモヤする。(普段募金もしないくせに、私も充分勝手な人間だと思う)
そういうの全部含めて、あの観戦の空間が本当に苦手だ。

だが世間一般ではこういうお祭りムードに素直に乗っかることが良しとされる。そもそもスポーツが好きなことは好ましいとされているし、そっちが圧倒的マジョリティだ。
世界が私が嫌いなもの一色に染まって、なのに向こう側は皆んな楽しそうで、そうやって除外されていく感覚を一番顕著に感じるのがオリンピックなんだと思う。

しかし、だ。

私の場合、この疎外感を感じるのはスポーツ観戦に限ったことではなかったりする。

例えば流行りのドラマだとか、大人気アイドルだとか、話題のグルメだとか、新しい技術だとか。
人がワッと集まって持て囃されるコンテンツが現れると「これを良いと思うことが当たり前だ、乗っかることが正しい」と押し付けられているような気がしてしまう。
強いこと、頭がいいこと、美しいこと、素晴らしいこと。それらに熱狂して正義みたいに振りかざす大衆を脅威に感じる。同じ方向を見て同じように動く人間は怖いし、気持ち悪い。だから私は飲み込まれないように、極力距離を取る。
そして周りから「あれ見た?」「これ試した?」と振られても、結局全てに「NO」としか答えられない。
それで居心地が悪くなっているんだから、素直に流行りに乗っかればいいのだろう。
そうすれば生きやすくなるのに、私は意固地になって絶対にしない。
そうなってくるともう居心地の悪いところに居ることに、居心地の良さを感じている自分がいるのかもしれない、とも思う。

ていうか。
そもそも、別に誰も「見ろ!」「やれ!」なんて言ってない。私の中になぜか虚のマジョリティが存在している。そいつは主にメディアの情報を栄養にして雑草のようにぐんぐん育っている。
で、それに対して勝手に反発しているのである。
周りがコミュニケーションを取ろうと手を差し伸べてくれているのに、その手も雑草と見間違えて全て引っこ抜いて捨てている。
それは自我であり、自意識であり、厨二病であり、ただの天邪鬼である。だからこれは完全に私の一人相撲だ。

なんだこの邪魔な自意識は。
どうしてこの歳になっても、過剰な自意識が消えてくれない?
私が恐れているのは自意識が生んだ、ただの亡霊だ。
しかし亡霊というには、あまりにも輪郭がはっきりし過ぎている。
こいつを除霊するには、メディアに触れないことが一番なんだと思うが、この時代にそれは不可能。なんなら私は友達0人なので、私以外の意見に接する機会が基本的にメディアやSNSしかない。
終わってる。

スポーツが嫌だとか流行りがキモいとかなんとか言って駄々を捏ねているが、それなのに私は今、なぜか体育会系が多数を占める会社に勤めている。
だから仕事中の雑談も今はオリンピックの話題が頻繁に上がる。
話を振られても答えはもちろん
「見てないので分かんないです」
そう返せば自然とソッチ側に追いやられる。ソッチ側というのはソッチ側だ。話の合わないやつグループ。つまんねーやつグループ。陰の方。どの話題も避けて通ってるので、誰とも会話が合わない。
まあそれは、ここの職場に限らずいつでもどこでもそうなんだけど。
でも頑固な私は変わろうともしないし、めんどくさいから生きやすくなる方法を模索しようともしない。
あーあ、生きづらい。
そう言いながら、人の優しさも突っぱねて拗れた自意識と変なプライドだけ抱えて野垂れ死ぬんだろうな私は。


とはいいつつも。
実は体を動かすこと自体はけっこう好きなので、子どもの頃から何かしら運動はしている。
水泳、弓道、ダンス……そして今はキックボクシング ジムに通っている。
黙々とサンドバッグにパンチを打ち込むのは楽しいし、ストレス発散になる。筋力も体力も人一倍無いのでパンチもキックもよわよわだ。側から見たらかなり滑稽な姿だろう。
でもここのジムは皆同レベルなので他人の目は気にならない。自分の世界に浸るには絵を描くか文字を書くかしかないと思ってたけど、運動もけっこうアリなんだよな。
それでもボクシングの試合は今後も絶対見ないだろう。あれは怖すぎる。
人殴るとか言語道断だから!!!

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