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迂回する事の必要性

産まれ育った家族 と わたしが築いている家族。


全く違う家庭を築いている。



わたしと夫は、子供が自分の事や自分の未来の為に、子供自身の事を探求する事になるべくエネルギーが使える環境を考える。



なので、解決すべき問題が現れた時、わたしと夫は、なるべく子供に心配かけない様に、不安にさせない様に、2人で解決策を練る。



わたしが、産まれた家族は、子供へ相談する事は普通なので、心配や不安は全部わたしへ連絡があり、それを聞いて、わたしが心配しないか不安にならないかはお構いなしに、自分の気持ちを伝えて来る。
家庭内の問題を子供も、請け負っていた。



父へ言えない事は、わたしから言ってくれると助かると、疑問に思う事もなくお願いされる。
父がわたしに腹を立てると、母は、父につくのである。



それが、普通なのだ。


何度も、何度も、伝えて来た。

本来、夫婦で話して欲しい事で、わたしは、夫と子供と家庭を築いてると。



置かれている環境、見たこともない環境をわたしが築いているので、両親にはどうしても分からない様だ。


ここで、境界線の問題と支配欲とコントロール欲の課題が頭をよぎる。


父と母の言動を、支配する権利はわたしにはない。
わたしにある権利は、わたしの言動だけだ。


わたしの人生の責任はわたしにある!



わたしの目的は、子供たちが自立するまでの環境を整え、挑戦と失敗(本来挑戦した時点で失敗とは捉えなくても良いと思う)を、存分に安心してさせてあげたい事。



夫と2人で、子供たちが、自立するまでは環境作り、自立したら、また2人でやってみたい事がたくさんある。



父と母とは、たくさんたくさん向き合って来たつもりだ。
だけど、我が1番先にある状態では、わたしの環境や気持ちは分かるはずもない。
また、そこに囚われて執着して、支配欲とコントロール欲のぶつけ合いをしても仕方ない。



この歳になれば、人対人。



立ちはだかる両親を、迂回してわたしは、わたしの、目的の道を辿る。



ぶつかるのではなく、よけて本来の道をしっかりと歩く。



もちろん、本当に困った時や、命に関わる時は、手を貸す。本来わたしは家族が好きだった。
親を慰め励まし、夫婦の潤滑油として良く働いた。
今も心から、幸せでいて欲しいと思っている。


だからこそ、わたしは、もう、自分の人生を捧げるわけにはいかないのだ。


今まで、全ての事に真っすぐに向き合う事で前に進めるのだと思っていた。



家族でなければ、尊重も出来るし、勉強にもなるが、家族とは本当に難しい。

特別という感情がなかなか抜けない。


本来、人は皆、平等に特別なのに。


よけて通るイメージが頭の中で出来た時、わたしの目的を見失ってまで、争う必要はそこにはなかったと気付けた。



迂回する事の必要性をすごく感じた。


誰がやる事なのかを、冷静に判断する。
請け負わない。引き受けない。


わたしは、見失わない。


自分が歩む道は、誰にも立ちはだかることは出来ない!



退いてもらえないのなら、迂回してでも、わたしはわたしの道の上を歩く!


わたしの人生の責任に、父も母も関係ない!


わたしの人生は、わたしのものだ!!!



わたしの人生の責任は、わたしが取る!!!







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