【読書感想文】競争闘争理論 サッカーは「競う」べきか「闘う」べきか?
Twitterの文字数では収められないし、スレッドにしても変な切り取り方が出来ちゃうので、そうした事柄はこちらで。何か結論や提言がある訳ではなく、ちょっと長いツイートという感覚です。
まずは読んだ本自体の紹介から。
この本を書いた河内一馬さんのことは数年前にfootballistaに寄稿していた記事を読んで知り面白い考え方をしていることに興味はありましたが、その興味に決定打を与えたのがZISOでの井筒陸也さんとの対談動画でした。
サッカーという競技を考えるときに、競技としてのルールから導き出す戦術的な要素さえ考えれば良いのかというとそうでななくて、プレーをするのは人間だし、その人間自体が多種多様で、その人間を取り巻く社会も多種多様で、サッカーという競技を考えるためには人間や社会を考えることも必要である、といった考え方にとても共感しました。
哲学や社会学のような領域も必要だし、言語学や心理学のような領域も必要だし、そもそもそれらはお互いが結び付きあっているし、人間や社会は何をするにもその領域から切り離すことはできないわけで。
そして、この本ではタイトルにもある「競争」「闘争」という言葉でスポーツ(ゲーム)を分類し、その分類によって求められる思考態度(マインドセット)はどうあるべきか、それを起点にサッカーの構成をどのように捉えるかといったものを説明してくれていますが、本全体の構成も各章での論理の展開もかなり整理されていて頭に入ってきやすかったです。
詳しい内容は実際に読んでもらうのが良いとして、サッカーの中で自分が一番見ているのはJリーグで、そもそも自分は日本で生まれて、日本語を母語にして、日本の社会の中で育ち、今も生活しているのですが、ここ数年特に感じているのは「なぜ手段の目的化が多発しているのか」ということでした。
Jリーグでは欧州から数年遅れではありますが「ポジショナルプレー」の考え方が定着してきていたり、それよりも前の段階ではペップバルサ(自分は知らないけどその前のクライフ時代から?)の影響を受けてボールを保持し、短いパスをたくさん繋いできれいに相手を崩すというスタイルを好む傾向にあると思います。
ただ、これらにトライするチームが必ずと言って良いほど直面するのが「ボールは持っているし、パスは繋がっているけど、果たして相手ゴールに向かうためにそれをやれているのか?」ということです。「手段が目的にすりかわっていませんか?」という話ですね。
自分はこれまで、新しい技術や考え方を使いこなせるようになるには、最初はそれが上手くできないからそこへ意識が向いていくのは仕方ない、それが無意識のうちに出来るようになれば本来の目的のためにそれを活用できるのではないか、ということを考えていました。
ただ、この本の中で紹介されていたように、弓術での「正射必中」という言葉であったり、柔道のような「型のある競技」が日本には古くから定着していて、「正しい手段を取れば自然と目的に達することが出来る。だからこそ、目的に囚われず手段を正しく行うことが大切だ」という思考態度が自分も含めて日本社会の無意識レベルに落とし込まれているように思いました。
なので、日本が国際舞台でそういう思考態度が向いている競技(競争)で結果を出せていて、それとは違う思考態度が向いている競技(闘争)で結果を出せていない指摘というのは非常に納得させられるものでした。
これは良し悪しや優劣の話ではなくて、例えば日本語と英語を比較したときに、日本語は主語や目的語は無くても良いしどんな順番で使われても文としての意味はあまり変わらないのに対して、英語は主語、動詞、目的語がどれも必要で、順番が違うと全く違う意味の文になってしまう特性があります。
人間の思考は基本的には母語をベースに組み立てられていくと思うので、日本語を母語にする人にとっては思考を組み立てるときに主語か目的語のどちらか、下手すればどちらも抜け落ちてしまうということが簡単に発生します。自分と相手の関係性を重視し、抜けている主語や目的語は文脈から補うというハイコンテクストな文化が日本社会の特徴ですからね。
となると、英語のように必ず主述関係がはっきりしている言語が母語になっている欧米の人の思考は主語や目的語が抜けるということは無いのではないか、だから常に「目的」を見失わずにプレーすることが求められる競技で結果を出しやすいのではないか、と感じます。
型が必ずしもきれいに取れていなくても最終的な目的へ達することが出来ることがまずは最優先、という感覚を彼らの中に見たことがあるのは自分だけではないと思います。繰り返しですが、これは優劣の話ではなくて、それぞれの文化の特性であって、文化と今やっていることの組み合わせには向き不向きがあるということです。
そうした言語が母語の人、社会では「手段の目的化」は発生しないのでしょうか。日本語以外を母語にする人とこうした話をしたことが無いので自分では裏取りできませんが、そんなことを思いました。
Jリーグではここ数年、毎年のようにボール保持を高めるスタイルへ転向を図るチームが現れ、そういうスタイルを落とし込める指導者を招聘しています。順位予想をするときに、このチームはポジショナルプレーを取り入れようとしているから上位に来るだろうとか、明確なプレースタイルが無いからあまり勝てないだろうとか、そんなことを考えてしまいがちな気がしています。
もちろん、そうした「手段」を明確に持つことが「結果」を得るためには必要なことですし、手段を持っているチームが少数という状況であれば「手段を持っていること」が強みになってきたと思います。
ただ、今はまたJリーグとしても少し段階が変わってきていて、「手段を持っていること」自体は当たり前で、「手段をいかに活用するか」「相手の手段を無効化するか」「相手の手段を利用するか」という段階に来ていると思います。
2022年のJ1が開幕し、感覚として今季はここまで引き分ける試合が多いような気がしますが、これはどのチームもある程度の手段を持つところまで引き上がってきていて、改めて選手個々や指導者が「目的のために手段をいかに使えるか」を問われた時にはまだお互いの差が少ないという段階なのかなと思います。「理不尽さ」と呼ばれる要素がこれにあたるかもと思ったり。
2021年の神戸の躍進は「目的のために手段をいかに使えるか」という点で優れた選手が何人もいたことでしょうし、いまだにモドリッチ、クロース、カゼミーロが輝いて結果を出し続けているレアル・マドリーはその最たる例かもしれませんね。
色々な人の思惑がある中で、いかに目的を意識しながら手段を選べるか、というのはサッカーに限った話ではないです。そういう要素に正面から向き合って掘り下げたこの本は、「サッカーの本」というだけでなく「哲学・社会学の本」と言えるでしょうし、サッカーとは離れた場所にいる人にも適用できる話が詰まっている本だと思います。
哲学の本はどれも読み進める中で胸にグサッと矢を刺されるような感覚を持ちますが、この本もそうだったというのがこの本が良書であった証ではないかなと。とても面白かったです。
今回も駄文にお付き合い頂きありがとうございました。