真理、判断原理メモ
猿山の大将たち
利潤追求のためにあるTwitterX会や、ノートは別にした多くのブログ経営企業などは、真理判断などてきる原理はない。
それを知(り自覚し)ったなら、よりよい人間つくりとその社会や国にする革命組織へと変容させ発展させる。
イーロンたちお山の大将たちはそれを知らない。
哲学無きモノは、つまり真実概念が無い者は、それを分からない。
自分勝手な価値観で真実と主張し、また嘘だとか信頼できないと主張する。
バンだとかアカウント制限だとか、神に代わった裁定者気取りで裁定している。このまま反省なく倒錯を続けたら、そうして莫大な情報管理力を得るように拡大したなら、どんな理屈をつけて並べ、その項目を挙げて死刑判決を下しかねない倒錯ぶり、お山の大将ぶりなのだ。
つまり事実真実真理というものを知らず分からないのだかから、目の前の情報(文章であれ視覚情報現実の空間であれ)判断できないのだ。
事実は目の前に現象そのものことで、不確定なものだが人々の五感で感知認識できるものだ。
真実は相対的にあり、絶対的真実もその中にある。
つまり真実は相対的真実と絶対的真実がある。
この真実概念の上の高次概念で真理がある。
高次概念である哲学無きモノは、真理は分からない。
おろかしい電網企業が多すぎるし、哲学なきAIを開発者たちは最高級コンピューターを開発するのだといっている。
哲学は何千年も認識(物質も外界の変化を受けてその痕跡を記録する)というものを研究しているが、彼らはそれから離れて何千年研究するつもりだろうか?。
この他に真実についての話に必要な命題はたくさんあるが、哲学するわけではないので次のことも添える必要があるだろう。
多くの人々が錯覚倒錯しているが、真実や真理は、全体と細部の関係を知らず、全体を知らないと細部を知ることはできないし、細部を知ったと(それは錯覚なのだが)しても全体を知ることはできないということを知らない。
砂粒の知識
哲学の認識論と真偽論の話しをすると長くなるし読んでもわからないだろうから、例えばなしをすると、私たちの目の前のあれこれの知識は砂粒みたいなもので、その砂粒を集めても、ある人の人生全体で、できるだけ大量に集めても、それらの砂粒は山のものか川や海のモノかは分からないだろうということなのだ。
電網で話しあわれているアレコレの知識はそのような砂粒知識なのだ。またそれを読んで感心したり尊敬したりして、フォロワーが多数居ても、本人はそれだけの人々を騙していることに気付かないし、フォロワー側も騙されていることも気付かないでいるのだ。
新聞記事も同様に砂粒知識であり、国民から尊敬されてい「知識人」や「文化人」や「有名人」も騙しが上手い人であり、沢山の国民が騙されているということなのだ。
歩く目的地と目的を知らない俳諧者たち
また別なたとえ話をすると、我々は歩き移動しているし、仕事の最終結果を知っていてその目的地点に向かって歩いたり仕事をしたりしているのだろう。
その行程なり工程なりの全体を知らずに歩いたり仕事をするのは不可能なのだ。実験という仕事も成功という終着点を知っている(想定してる)から実験なのだ。
予期せぬ発見をしたとても終着点を知っているつもりで進めた必然が導いた偶然なのだ。その必然が全体の構成物なのである。こういうと哲学になり分からないだろう深入りしないが。
つまり人類が歩き始めたとき(時代)からその目的地があるのだ。
先見的に与えられている活動が「生きる」ということなのだ。それを知らず自覚していなかったから哲学を始めたのだし、哲学がない時(時代)は宗教がその答えを与えてきたのである。
今ではすっかり目的地が科学的に証明されて、周知なものとなっている。
だがこの全体像は細部知識とは違うから、それを知らないで自覚なく歩き生きて、人生を送っているつもりでいる人が大半なのだ。
つまり細部砂粒知識を集めているから全体を知りようがないし、人生の終盤でもそれに気付く人はめったに居ないことになっている。
文殊の知恵だとばかりに多数があつまり、数の力で騙しあい信じあい騙され合って安心しているのだが、いつまで経って国民の大半が真実と真理はつかめないのだ。
科学を知らない古代宗教によって、すでに人類文明は崩壊の間際に立たされてしまった。
きりがないのだが書きすて記事を整理していて偶然見つけたので転載する。現代認識論としては最先端の視点なので掲載する必要があるものとした。
哲学の真価
すべての人間の認識について問いただす命題が次のようにある。哲学史に残る警句や教え知識の遺産は数多くあるが、人類史の終盤で次の言葉も加える必要があるだろう。
世界(自然)や国や、社会というものの実態や実像、事実、真実は5つあるだろう。
1,毎日の生活で五感で感ずる個人経験。
2,報道が作り出す観念と六感で感じる社会。
3,社会科学が示し感知する社会。
4,宗教が作り出す社会像。
5,哲学が示す世界(哲学の世界とは宇宙も含んだ意味)と社会像。
他にあるか、第6の宇宙と世界と社会と人間などの姿をとらえる種別項目を各自考えてほしい。
神秘主義の勝手な理屈は宗教的項目に入る。物理学の宇宙論も第3の科学に含まれるか、哲学理論と重なりそれを深めると哲学と同質となる。あるいはその理論を哲学が吸収して哲学を太らせ、物理学はその領分を守る。
物事(世界)を計るには計測器が必要だが、計測器になるのは哲学だけ。
哲学の知識無く、実態や真実は計れず分からない。
「記事元を読み見て、確認しましょう」などという電網会社まであり、第2の
視点で正常判断だと倒錯しているから、自分の狂いまくりの狂気の度合いとそれを計れない。
哲学の必要不可欠は、人類知性が獲得した常識であり哲学無き学術(現代米国発祥の「科学主義」)は虚偽である。
勝利した哲学を学ばず、知ったかぶりの知識人、小利口、報道記事を信じるな、騙されるな、語るな。彼らによって次代の幕開けが阻止されている。
注意
引き続き私のブログ固定記事を読むとショックを受けて、数年から数十年の間いだ答えを見出すまで言葉を失うだろう。自身の頭脳の曇りをなくしたい人は注意しつつ一読をお勧めする。疑問に答えられるのは私しかいないのではないだろうか?ほかに有能な方がいるといいのだが、しかし同時にバカでなければならず、世間に出てくる根拠が物的にも理論精神的にもない。