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【考察】自己世界と他者理解に関する考察


はじめの戯言

本来、こんな哲学レポートなんて書いていないでプログラムを書かなければならないのだけれど、テスト前のお部屋掃除意欲向上理論により動機が同定される。

公理体系

・「私」とは著者のことではなく、自己世界を保有する各個体とする(多くの場合これは読者となるであろう)
・自己が認識できるものを全て包括したものを「私の自己世界」とする
・私以外のものの自己世界を「他者の自己世界」と呼ぶ。これは私以外の全員の自己世界全体を指す場合もあろうし、ある単一個体の他者の自己世界である場合もあろう
・ある十分に長い時間経過の間、他者との情報伝達において(これは必ずしも現実時間を他者と共有しているとは限らない)無矛盾性が期待される場合、この性質の度合いを「他者理解」であるとする

本題

私の自己世界において、あらゆる他者は私よりも無知である

私はある単一の他者と対峙している。この場合、三つの主な集まりが考えられる。それは「私の自己世界」「他者の自己世界」に加え、これら二つの交差である「私および他者間で共有される自己世界」(図1 ベン図「私および他者の自己世界」の*部分)である。以下、数学における集合論での定義を持ち出すことが可能な箇所があるが、直感に反しない程度の曖昧さは許容されるものとする。ここでこれらの集まりの大きさを考えてみよう。「私の自己世界」と「他者の自己世界」の大きさはそれほど違わないであろう。例えば経過時間、つまり年齢に応じて獲得されたものが個体ごとに違うのではないか、という反論が思いつくが、これは時間経過により失われたもの、を考慮していない。さらにここから、時間経過を経なかったことによって獲得されているもの、をも考慮可能である。このように無限の問答が可能であろうからどちらも同じだけ大きな無限としよう。
次に「私の自己世界」および「他者の自己世界」の交差である「私および他者間で共有される自己世界」の大きさを考えよう(有限か無限かを措定するには少なくない労力が必要に思えるので、ここでは必要に迫られない以上考慮しないものとする)。これが多くの場合、「私の自己世界」および「他者の自己世界」どちらよりも遥かに小さいと考えるのは直感に反しないであろう。特に考察に値しないものとする。
これらを認めるならば、私および他者間で共有可能な自己世界など、互いの自己世界のほんの一部に過ぎないということがわかる。つまり「私の自己世界において、あらゆる他者は私よりも無知である」という主張は認めてよかろう。

図1 ベン図「私および他者の自己世界」

他者理解について

直前の議論において、私および他者の自己世界間で共有されるものは、個々の自己世界のほんの一部しかないことを認めた。これに基礎付けるならば、「他者理解」ということがひどく難しいものであるということに思い至るのは自然であろう。私および他者間で共有される自己世界の存在そのものは直感に反しない。だが、それらが具体的に何であるかを措定するのは甚だ難しい。例えば、私および単一の他者で会話をしていたとしよう。その時、ある対象について議論していたが、途中で互いが思い浮かべていた対象が異なっていることに気づいた。そういう経験を日常で得た読者も少なくはないのではないか。このような議論はすでに参考1でなされているのでここでは深くは立ち入らない。このようにある時点では共有されていたはずの対象が、実は共有されていなかった、否、時間経過により共有されなくなることは他者との関わりにおいて容易に発生しうる事態である。これは、時間発展を考慮すれば「私および他者間で共有される自己世界」が固定されていないことを意味する。もっと言えば、時間発展により、明確に大きさが拡大および縮小される、ということが考えられる、ということである。これは、すでに甚だ難しいであろう他者理解が可能だったとしても、その理解が十分に短い時間で崩壊することが容易に考えられるということである。

結論

ある時点において、人間としての複数個体間で理解されている状態はほとんどあり得ない。他者から理解されることを望むことは神に対峙する愚かしい行為である。

参考

  1. ウィトゲンシュタイン「哲学探究」

蛇足

今年(2024年)のGWはおよそ半分ずつで平日に分断されてしまいました。その2元の後ろ側のさらに後ろ側あたりで執筆している。ある程度の休暇がないとクリエイティビティは発揮されないと思っているが、やはり人類ニートになるしか救いはないのではないか。
最近はショーペンハウアー「意志と表象としての世界」(下リンク)を読み進めているが、読み終わるのはいつになることやら。


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