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中高生の頃の「校則」による「指導」は、今考えると虐待だった

クラス毎に一列に並べさせられ、裾やスカートの長さや髪の色などを細かにチェックされる・・・。

中学や高校生の頃、こうした経験をしたことのある人は多いのではないだろうか。

2017年、生まれつき茶髪の生徒が高校で髪の毛の黒染めを強要されたことで精神的被害を受けたとして学校側を提訴し、大きな話題となった。これをきっかけとして、評論家の荻上チキ氏によって「ブラック校則をなくそう!プロジェクト」が立ち上げられると、全国から「理不尽な校則」に関する経験談が多く寄せられている。

詳細は、プロジェクトによる調査結果をもとに様々な立場からの議論をまとめられた『ブラック校則ー理不尽な苦しみの現実』に譲るが、「女生徒の下着の色まで決められ男性教諭による目視での確認が行なわれている」といった、一般社会では性犯罪になるような行為が「指導」の下に行なわれている現実が明るみになっている。

上記の報告を待つまでもなく、学生時代の校則や、それに伴う「指導」に苦しめられた人は少なくないだろう。

筆者もその一人である。

「特別指導」という名の虐待

筆者は中学・高校と私立の一貫校に通っていたが、多分に漏れず校則はとても厳しかった。

定期的に行われる「頭髪服装チェック」はもちろんのこと、「問題行為」を行った生徒は1週間ほど「生徒指導室」という特別な部屋に朝から晩まで監禁され、一日中反省文を書かなければならなかった。これを母校では「特別指導」とよんでおり、特別指導の間、他の生徒と交流することは認められず、朝は誰よりも早く登校することを求められた。

筆者も何度か「特別指導」の対象とされたことがあった。無論、筆者に明らかな非があることもあったが、それにしても一日中教室とは別室で反省文を書かされるというのは行き過ぎた「指導」だろう。

この間、授業を受けられないという意味でも、教育を受ける権利を侵害されているといってよい。

また、この「特別指導」の対象にされる過程では、およそ教育現場で起きているとは信じられないような「取り調べ」が行われていた。

「問題行為」が複数の生徒によって行われた場合、生徒は一人ずつ個室に入れられ、入れ替わり立ち替わり複数の教師から「お前が中心でやったのか」「誰が考えたのか答えろ」などと凄まれることになる。

その過程では、教員から「他のみんなはAがやったと言っている。あとはお前だけだ」などと言われたが、後で他の生徒と話すと全員同じ内容の「つめ」られかたをされていたことが分かることも珍しくなかった。

教師が生徒に嘘をついて「自白」や「証言」を引き出そうとしていたのである。

またある時は、筆者と同じ路線で通学している生徒が、線路に降りて悪ふざけをするという「問題行為」を行ったことがあった。この生徒は普段から筆者が行動を共にすることが多かったために、筆者も「取り調べ」を受けることになった。

しかし、この件に関しては筆者はたまたま全く関与していなかった。何度「やっていない」と主張しても信じてもらえない。すると、当時まだ筆者とはほぼ面識のなかった生徒指導の担当教員がいきなり部屋に入ってくるなり、椅子を蹴り上げて「お前がやったんだろうが!」と大声で凄んできた。

あまりの恐怖に固まっていると、担任の教師が何やら耳打ちをする。

すると生徒指導の教員は態度を一変し、「君が成績優秀な生徒だとは知らなかった。申し訳ない」と即座に謝罪してきたのである。
生徒の成績によってこうも「指導方針」を変えるのかと驚かされたうえ、学校全体に対する不信感も大きなものになってしまった。

理不尽な校則と「学校化社会」

さて、こうした「指導」の名の下に行われる過剰なまでの「取り調べ」や恫喝は、明らかに虐待であろう。

しかし、なぜ当時の母校ではこのような虐待がまかり通っていたのだろうか。無論、学校自体が閉鎖的な空間であることはその理由の一つだろうが、虐待ともとれる過度な「指導」に対する保護者をはじめとする市民の反発が(少なくとも当時の筆者の母校においては)あまり起こっていなかったのは何故なのか。素朴に、疑問である。

この点について内田良は、前掲の『ブラック校則』において、理不尽な校則や指導が行われる背景に学校関係者だけでなく、一般社会の人々が学校に求める規範があるのではないかと指摘する。

「学校vs市民」という見方は、たしかに学校特有の状況を浮かび上がらせるには有効な図式である。だが、そもそもこの社会の民意は、それほどまでに理想視できるものだろうか。じつは、「市民」もまた、十分に学校的価値観に染まっているとは考えられないだろうか。「学校化社会」という言葉がある。哲学者のイヴァン・イリイチは、学校的な価値が制度に組み込まれた社会を「学校化社会」と呼び、そのあり方を批判的に考察した。・・・両者に共通するのは、学校の価値観が、社会のなかで支配的な位置を占めていることに対する危機感である。すなわち「学校化社会」という概念は、「学校vs市民」ではなく、「学校=市民」という見方を、私たちに提供してくれる。

さらに内田は、内閣府が実施した保護者対象の全国調査(2014年実施、子どもの保護者2487名が回答)における「我が国の子育てや教育の現状について考えたとき、あなたはどのようなことが問題だと思いますか」という質問に対し、「学校の校則が厳し過ぎること」への関心はわずか2.7%と具体的な14項目のなかでは最小値であったことを紹介している。そのうえで次のように指摘している。

・・・校則に対する保護者の期待は大きい(問題意識は小さい)。学校側が外見にこだわりながら、子どもを厳しく管理しようとするのは、けっして教師だけの問題ではなく、保護者や地域住民を含めた「学校化社会」の問題である。

改めて言うまでもないことだが、今回例として紹介したような「指導」は教育を受ける権利や、暴力を回避する権利を侵害するものであり、こうした権利侵害は相手が子どもだからという理由で正当化しうるものでは到底ない。

そもそも、服装や頭髪についても、個人の自由を制限するような「ルール」を法令とは別に設けること自体、これを正当化しうる明確な根拠があるわけではない。

「校則」に「拘束」されることを正当化しうる条件とは?

それでは、生徒が校則に規定されることを正当化しうる根拠はどのように見出しうるのだろうか。
いかなるルールも、個人の自由を制限しうるという点で、これを正当化するためにはそれなりの条件が担保される必要がある。

ここで問われているのは、「個人が規則に従うことを正当化しうる条件とは何か?」ということだ。

アメリカの政治学者であるナンシー・フレイザー(2012:51-54)は、個人の自由を尊重するための制度が、ある別の自由を制限せざるをえないというジレンマを前に、そうした制限の妥当性を担保する条件について検討している。そのなかでフレイザーが制度に人々が「拘束」される正当性を担保する条件としたものこそ、民主的熟議であった。

民主主義というパースぺクティブでは、正義は、それを課された人々の頭ごなしに決定され外部から押し付けられた要求ではない。むしろ正義は、その名宛人が正当に自分自身をその起草者としても見なすことができる限りにおいてのみ、拘束力をもつのである。(フレイザー2012:53)

いかなるルールも、それに規定される人々の外部から一方的に押しつけられるということがあってはならない。それは、時に「未熟」であるとされ、自律的に考え行動できるまでは大人が導いてやらねばらないとされがちな子どもであっても同様である。

この点とも関わって、真下は、校則のあるべき姿の「鍵」として、「子どもの『参加』」という視点を提供する。

校則に関する法令が存在していない現状において、校則のあるべき姿とはどういったものか。その鍵となるのは、子どもの「参加」である。校則の捉え方については、諸説あるが、校則を生徒・保護者と学校設置者の間の「在学契約」と考えるべきという説が有力だ。契約であれば、学校と生徒・保護者の間に合意が必要となるから、学校が一方的に子どもの権利を制約するような事態を避けられるからである。そうであるならば、校則には、最低限、生徒・保護者の意思が反映されるような仕組みが不可欠ということになる。

真下麻里子(2018)「司法から見る校則」荻上チキ・内田良編(2018)『ブラック校則―理不尽な苦しみの現実』東洋館出版社

個人を拘束するルールにまさに個人が従うことを正当化するためには、ルールに規定されるすべての人びとがそのルールづくりに参加できていなければ、その正当性を担保できない。このことは、大人であれ子どもであれ同様である。

そもそも、学校教育の目的は何であったか。

教育基本法において「教育の目的」は以下のように定義されている。

第一条 教育は、人格の完成を目指し、平和で民主的な国家及び社会の形成者として必要な資質を備えた心身ともに健康な国民の育成を期して行われなければならない。

生徒一人ひとりが盲目的にルールに従うのではなく、自分自身や周囲の仲間のためにおかしなルールは変えていく。これこそ、「平和で民主的な国家及び社会の形成者として必要な資質」の一つだろう。

校則づくりに参加することも認めず、「規則には黙って従え」と強制することが、果たして「平和で民主的な国家及び社会の形成者」の育成につながるだろうか。

「学校化社会」という指摘にどう向き合うか

さて、理不尽なルールを強要する「ブラック校則」について、学校関係者がそのルールづくりの段階から見つめ直さなければならないのは言うまでもない。

他方で、既に紹介した「学校化社会」という指摘は、「ブラック校則」が学校だけの問題ではないことを示唆している。

学校関係者だけでない、少なからぬ大人たちが、「少々理不尽に思える校則も、子どもの鍛錬にとっては必要なものだ」「判断能力の低い子どもに校則づくりに関与させるべきではない」などと、思考を停止してしまっていないだろうか。

ここで問われるのは、私たち「大人」が、「考え方や価値観の異なる他者同士がいかにして共生しうるのか」という「社会づくり」をどう考え、そこでの理念をいかに後世に伝えていけるかということである。

「平和で民主的な国家及び社会の形成者として必要な資質」とは何なのか、私たち「大人」はどう考えるのか。そして、そうした「資質」はいかにして体得できるのか。

こうした点を考え、議論し続けること。そうした不断の努力なしに、「平和で民主的な国家及び社会の形成者の育成」など、できるはずがない。

「ブラック校則」という視座が浮き彫りにしたのは、実はこうした「大人の課題」なのかもしれない。



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永井悠大
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