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【再掲】緊急事態宣言の前に、やるべきことがまだある。

昨年の4月に発令された緊急事態宣言。年明け間もない昨日、再びその可能性が高まる動きがあった。首都圏の1都3県が政府に緊急自体宣言の発令の検討を政府に要求したというのだ。

昨年4月も「緊急事態宣言がいつ出されるか」というのは社会的にも大きな注目を集めた。
しかし、実際に発令されたもののそれ以前の自粛要請の頃と実際の行動範囲がほとんど変わっていないという人もいるだろう。
日本の場合、法的な根拠を持って人びとの自由を規制できる内容になっているわけではないので当然と言えば当然である。

しかし実際には、日本の社会は決定的に変わってしまった。
「緊急事態宣言という前例を作ってしまった」のである。

「緊急事態宣言」(あるいは非常事態宣言)について、筆者は「感染症のパンデミックや戦争、テロなど、市民の生命や財産に危険が差し迫っている有事に際し、政府が法令などに基づいて特殊な権限を発動するために、そのような事態を広く布告・宣言すること」として理解している。

ここで重要なのは、政府が市民の(平時であれば基本的人権として保障されているような)行動を「特殊な権限」の下に規制しうるということである。 

これは、冷静に考えたら大変なことである。

当時、報道では「日本の緊急事態宣言な罰則などの強制力を伴う規制を可能とするものではないから、重大な自由の侵害は起こらない」という識者の意見もよく聞いた。
ところが実際は、当時も現在も法的な根拠にもとづかないはずの行動規制が「自粛要請」の名のもとに行なわれている。
警察が駆り出されたことも含めて考えれば、権力の行使まではされないという説明は無理があるだろう。
さらにこわいのは、こうした状況を市民が自然と受け入れているように感じることである。

「受け入れている」という表現はマイルドすぎるかもしれない。
様々な事情から「自粛」に踏み切れない人たちが、世間から激しくバッシングされたりもしている。
平時であれば当然のように保障される個人の自由が、国家的な権力や市民からの「監視」によって制限されたのである。
さらに驚くべきは、普段、国家による自由の侵害を批判し市民の自由を守る論陣を張ってきたリベラルからも、緊急事態宣言を疑問視するような声がほとんど聞かれなかったことである。
現在も、むしろ「緊急事態宣言を出すのが遅い」と批判する論調のほうが目につく。

このような話をすると、
「未曾有の感染症が世界的なパンデミックに発展している今、そんな悠長なことは言ってられない」
「公共の福祉が、危機感のない身勝手な個人の『自由』によって侵害されてもいいというのか」
…といった声が聞こえてきそうである。

だが、待ってほしい。

「公共の福祉のため」という名の下に、個人の自由が蔑ろにされた結果、この国で何が起きたか。
まだ70年くらいしか経っていないのに、みんな、忘れてしまったのだろうか。

勿論、私は「個人のどんな自由であっても規制すべきではない」などとは全く思っていない。

保守やコミュニタリアンからのリベラルに対するお決まりの批判の一つに、「リベラルは『個人の自由』を価値中立に支持しているつもりでいるが、ある『個人の自由』の保障を訴える際、価値中立ではありえない」というものがある。

ただ、これはリベラルにとって致命傷でも何でもない。
何故なら、リベラルは個人の自由を価値中立に支持しているわけではないことを自覚しているからだ。むしろ、リベラルはこれまで散々「どのような価値、規範にもとづく自由が保障されるべきか」という議論をしてきた。

話を戻そう。

私たちはあらゆる「自由」を保障できるわけではないし、すべきでもない。
例えば、「人を殺す自由」を主張するAと、「殺されることを回避する自由」を主張するBがいた場合、私たちはBの主張する自由を守るべきだと感じるだろう。

そして、実際にBの自由を守るために、国家が司法制度などの大きな権力を行使することを私たちは社会的に承認しあっている。
このように、近代的な法治国家では、競合する様々な「自由」のなかから守るべき自由とそうでない自由を取捨選択し、守られるべきと評価された自由を保障するために国家権力の行使が正当化されるのである。

こうした視点から改めて「公共の福祉のために個人の自由を制限する」という意見を聞くとどうか。
現在のような“緊急事態”下では一見、もっともらしくも感じられるかもしれない。
しかし、この言説はそもそも論理的に変である。

というのも、「AのためにBを控える」という時、AとBは優先順位として「比較」されているわけであるが、「公共の福祉」と「個人の自由」は適切な「比較」対象として成立するだろうか。

例えば、「感染が拡大している今、ある個人が公共の場に出向くことは規制されるべきである」と主張される時、「ある個人が公共の場に出向く自由」よりも「公共」が優先されるというのは何を意味するのか。
この場合、「ある個人」は具体的な存在であるのに対し、「公共」は極めて抽象性の高いものであり、実態がない。

これでは、比較のしようがない。

こうした状況下で実際に競合している「自由」のありようを正しく表現するなら、次の通りである。

「ある個人Aが公共の場に出向く自由」と「公共の場にいあわせた個人Bが、Aと濃厚接触するのを避ける自由」のうち、どちらが優先されるべきか。

こうしてはじめて取捨選択すべき自由についての議論は可能になる。
もっともらしい「公共の福祉」という言葉に惑わされてはいけない。

さて、それでは上記の個人Aの自由と個人Bの自由はどちらが優先されるべきか。
多くの人は個人Bの自由を支持するのではないだろうか。

それでは、「やっぱり緊急事態宣言で個人Aの自由は規制すべきである」と考えたくなるかもしれないが、ここでもちょっと待ってほしい。

国家が権力を行使して個人の自由を制限することが正当化されうるのは、「競合する自由のなかから優先すべき自由とそうでない自由を取捨選択し、前者の自由を守るためにやむをえない場合」だったはずだ。

現在の日本で、「外出したいという人の自由」と「感染する機会を避けたいという人の自由」は、本当に競合を避けられないのだろうか。

答えは否である。

当時も現在も、政府は市民が収入の心配をせずに「自粛」できる施策を行っていない。
「感染する機会を避ける自由」を奪っているのは「外出したい人」ではなく、他ならない政府である。

「外出したいという人の自由」と「感染する機会を避けたいという人の自由」は、国が市民の収入や休業における補償さえすれば、競合しないどころか、両立しうる。

こういった状況では「外出したい人の自由」は軽視されがちだが、私たちは「家にいることができるとしてもなお、命を危険にさらしてでも外出したい人」の存在にもっと思いを寄せるべきではないだろうか。

私たちはつい、「今は大切な人に会えなくても、ちょっと我慢すればまた会える。今会ったら、永遠に会えなくなってしまうかもしれないよ」と迫ってしまったりする。

だけど、本当にそうだろうか。

今会うのを諦めたことで、来年会える保障は本当にあるのだろうか。

人にはそれぞれの事情がある。
大切な人が来年まで生きられる保証がないという人もいる。

他者を顧みずに思いのままに振る舞うのを承認せよと言っているのではない。
百歩譲って今の日本が「市民の生命を守るために一定の私権の制限が不可避」なのだとしても、本来は断腸の思いで、制限される個人への深い敬意のもとに行なわれるべきだ。

間違っても、「制限が当たり前」という風潮のもとに個人が批判されるということがあってはならない。

「家にいる自由」を国から保障されないままに放置されている私たちが、私権の制限を当然のものとして受けいれ、市民同士で監視し、たたき合うのは、絶対に間違っている。

むしろ今こそ「STAY HOMEする自由」と「自身の心身を危険にさらしてでも外出する自由」をいかに両立できるか、という議論を政府主導で積極的に展開すべきだろう。

「緊急事態宣言」の前にやるべきことが、まだあるはずだ。

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永井悠大
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