Blossoms will run away, 花の色は移りにけりな
花の色は 移りにけりな いたづらに
わが身世にふる ながめせしまに 小野小町
花が咲いたままでいられないように
物思いにふけりながら
私もあっという間にむなしく歳をとってしまった
Blossoms will run away,
Cakes reign but a Day,
But Memory like Melody
Is pink Eternally.
花は駆けて行く
ケーキはたった一日の玉座
されど想いは歌のように
いつまでも色褪せぬまま
前回訳した詩の中で、和歌の掛詞のような表現に出会ったのが強く印象に残っていたせいでしょうか。
ディキンソンのこの詩を2行読んだとき、小野小町の歌がぱっと頭を流れていきました。
小野小町といえば、クレオパトラ、楊貴妃と並んで世界三大美人とも称されるほどの美貌で知られていますが、その生涯はどんなものだったのでしょう。
百夜通いの伝説や、同じ時代を生きた在原業平、文屋康秀らと和歌を通した交流があったとか、僕もそのくらいのことしか知らず、そのくらいのことすらマンガで知ったのですが……。(杉田圭『超訳百人一首 うた恋』という作品です。)調べてみても、どうやらその生涯について、分かっていることは少ないようです。
宮中の花としてその才能をふるったと思われる小町ですが、晩年は都から距離をおき、孤独に暮らしていたようです。
花の色は 移りにけりな いたづらに
わが身世にふる ながめせしまに
末永く男に愛され子どもに囲まれて幸せに暮らしました、そんなおとぎ話のような晩年では、たしかにこんな寂寥をにじませた歌は詠まないでしょう。
自分が死んでも子どもが生き続ける、と自分を慰めることもできず、美貌で知られた小町だからこそ、晩年の孤独のなかで、そのむなしさを歌い、自らが生きた意味を問わざるを得なかったのかもしれません。私はこの世界に、何を残せただろうか、と。
一方、ディキンソンの詩はどうか。落ち込む隙もないくらいの速さで、悲しみの深淵を軽やかに、ユーモアで飛び越えていくかのようです。小町の歌を知っている人ならなおのこと、むなしさを明るく、こんな風にも歌えるのだということに、驚くのではないでしょうか。加えていうと、ディキンソンもまた、アメリカの田舎町で、人付き合いの少ない生活を送り、独身のまま生涯を閉じている。これは本当に、驚くべきことだと僕は思います。
小町とディキンソン。二人の歌人は、同じ人生の空虚さにつきあたり、違う答えを出した。二人の歌はそう考えたくなるほど対照的です。けれど僕は、小町がそのむなしさにとらわれ、ディキンソンがそのむなしさを超えた、というふうには、やはり思えませんでした。
ふたりは同じ問題に、同じ答え方をしたのだと思います。
うたを残す、という方法によって。
歌に形はないけれど、
But Memory like Melody
だからこそ、歌は人の心を、もっとも鮮やかな姿のまま伝えることができます。
この二つの歌を私たちがいま、読めるということ。そのことの奇跡を思う時、
形あるものを残すことだけが人生ではないと、
人生のむなしさに抗った二人の先達から大きな、
大きな励ましを受けたような気持になりました。
『THE COMPLETE POEMS OF EMILY DICHINSON』
THOMAS H . JOHNSON, EDITOR
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