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I’m Nobody! Who are you? ——誰かであること、それは——
I’m Nobody! Who are you?
Are you — Nobody — Too?
Then there is a pair of us?
Don’t tell! they’d advertise — you know!
How dreaty — to be — Somebody!
How public — like a Frog —
To tell one’s name — the livelong June —
To an admiring Bog!
私は誰でもない! あなたは誰?
あなたも——誰でもない人なの?
それなら私たち、同じってこと?
シッ! バレたらまずいわ——
誰かである、なんてつまらない
目立ちすぎることよ
蛙のように
自分の名前を唱えるなんて
六月の間じゅう
賛美する沼地に向かって!
みなさん、こんにちは。前回こちら↑を訳しながら、ディキンソンの詩は匿名の誰かに宛てた(これまた)匿名の手紙のようだ、という話をしたので、ディキンソンで匿名性といえば……と関連づけて思い浮かんだこの詩を、今回は取り上げてみたいと思います。
さて、
I’m 〜 といえば、自己紹介の基本ですよね。
あるいは、My name is 〜 でしょうか。
ところが、
この詩ではいきなり I’m Nobody! 。
そりゃビックリマークも付きますわ…
私=誰でもない! 冒頭のこの宣言によってディキンソンは、
私=誰かである という広く流布した固定観念をいきなり崩してみせます。
そして、矢継ぎ早に問いかけます。
あなたはどう(誰)なのか?
そもそも「誰か」なのか?——と。
こうして詩の前半は、誰でもない私が誰でもないあなたと出会えた興奮から、高いテンションで綴られていきます。
一方後半では、一行空いて一息つき、頭もクールになったのか。いよいよ詩人の本領発揮です。
誰でもないという立場から逆に、誰かであるというのはどういうことなのか、皮肉たっぷりの比喩で語られています。カエルの鳴き声がまさか自分の名前をひたすらコールしていたのだとは知りませんでしたが……
いずれにせよ、この表現は最高に面白いですね。
誰かになる、つまり有名になることを、
自然をつかってこんなふうに表現するとは。
さて、
翻訳についてですが、一箇所だけ明らかに意訳のところがあります。前半の四行目。
Don’t tell! they’d advertise — you know!
これを一語一語訳してしまうと、
(言ってはダメ!、そうしたら彼らは知らせようとするから、など。)
どうしてもくどく聞こえてしまいます。
ひとつ前の三行目をみると、
相手が同志(誰でもない人)だと分かった瞬間のテンションの跳ね上がりがあって、四行目では一転して、そんな我を忘れたふるまいを警戒する心理がはたらいている。
現代ふうにいえば、
話していた相手と「推し」が同じだと分かってテンションが上がり、一瞬のち冷静になって周りの目が気になりだす、といった状況に近いでしょうか。
ともかく、このような状況の流れを意識した結果、ここは簡潔で緊迫感のある表現が翻訳にも求められるだろうと思い、思い切ってざっくりと意訳することにしたのです。
ところで、同じく前半四行目で「advertise」という単語が出てきました。
広告、宣伝、知らせる、といった意味の言葉ですが、
死後アメリカを代表する詩人とまで認められる実力を持ちながら、生前のディキンソンが世間的にはまったくの無名であったことを思うと、ここには重要な意味を感じます。なぜ無名だったのか。ディキンソン自身がまさに「advertise」しない人だったからです。
生前に世に出たディキンソンの詩はわずか10篇。そのすべてが、匿名で発表されています。
そんな無名のディキンソンがこの詩で展開した「有名」批判は、次の二点に集約されると僕は思います。
①名前が広く知られることで、名前で中身(ディキンソンの場合なら作品)を評価されるようになる
→だからそのような場所には行きたくない。
(そのような場所とは、比喩的にはBog。具体的には、発表した作品が掲載される新聞や雑誌などのメディアのことでしょう。)
②名が知られることで得られる名声なんて、所詮はかりそめのものだ
→だから自分の名前などそもそもアピールしないほうがいい。
(the livelong Juneという表現が出てきます。これは非常に読み解き甲斐があるというか…色々と解釈できそうです。ひとまずここでは、12ある月の中の1つでしかないという意味で「短い」6月に、livelong=長い、〜のあいだじゅう、という矛盾した形容詞をつけることで、今、名前が売れている人にとってはいつまでも名声が続くように感じるかもしれないけど、そんなふうに自分の名前を売り込んでも実際は短い期間しか保たないよ、と、そのような内容として解釈したいと思います。)
この批判は果たして当たっているのか。それは、
この詩が心に響くかどうか。
あるいは、ディキンソンの作品が死後に得た評価と広がりを思って
私たちの心が、判断すべきでしょう。