I held a Jewel in my fingers — 私は手に宝石を握りしめて
I held a Jewel in my fingers —
And went to sleep —
The day was warm, and winds were prosy —
I said “‘Twill keep” —
I woke — and chid my honest fingers,
The Gem was gone —
And now, an Amethyst remembrance
Is all I own —
私は手に宝石を握りしめて——
眠りについた——
日は温かく、
風は穏やか——
私はつぶやいた、
「なくしはしないわ」——
目が覚めて——
私は愚かな手を叱った、
宝石はなくなっていた——
いまここにある紫水晶の思い出だけが、
私の手にしたもの。
Twill = it will
子どものころの記憶の回想の詩。
なので、あるいはもう少し少女らしいことばで訳したほうがよかっただろうか。そう思って訳を直そうか迷ったが、結局このままにすることにした。回想には今の自分と、当時の自分がいる。日本語訳では大人になった女性と当時の少女とのギャップが味わい深くなる方がいい、それこそ回想の醍醐味ではないかと思い直したのだ。
というと、
もっともらしく、あるいは言い訳がましく聞こえるでしょうか。
しかし、この回想における「時の二重性」は、原文と日本語訳をいっしょに読む外国語の詩だからこそ、いっそう効果的に現れたのではないかと、ふと気がつきました。
I held a Jewel in my fingers —
And went to sleep —
これを読んだ時点で、少女をイメージできる。
しかし、これを訳してみると、
私は手に宝石を握りしめて——
眠りについた——
と、大人の言葉で訳してしまう。
この時、読者はすでにディキンソン(大人)の立場にその身を置いているわけです。
少女を想起させることばを、
大人の立場で訳していく。
このプロセスが、回想するという行為そのものをなぞっているからこそ、
日本語でノスタルジックな文章を読んだとき以上のものを、
この詩に感じるのだと気付きました。
ちなみに、
回想には、当時の自分と今の自分がいる、と先ほど言いました。
子どもだから「分からない」こと、
大人になったから「分かる」こと、
二つが同時に表現されていること。
これが、ノスタルジックな文章を読んだときに感じる、胸の疼きの正体ではないかと僕は思っています。
先の詩の例でいえば、
hold(一時的におさえておく)なのに、
keep(目をはなさない、長く保つ)できると思っているところとか、
不条理にも、fingerをchidするところとか。
子どもは分かってない、ということが大人の私たちには分かる。
なぜそれが分かるかといえば、
それは私たちが、かつては子どもだったからです。
回想してないのに、こういうこと書いてるだけでノスタルジックで切ない気分になってきました……。
『THE COMPLETE POEMS OF EMILY DICHINSON』
THOMAS H . JOHNSON, EDITOR