『地の糧』
読書感想です。
ジッド『地の糧』今日出海訳 新潮文庫
写真のコラボカバーから察せられるとおり、ヨルシカの楽曲「チノカテ」からの影響で手に取りました。
が、いざページをひらいてみると、ヨルシカの曲調と本の雰囲気がずいぶん違うので驚きました。
なるほど、ヨルシカが仕立てるとこれが、あんな都会的で、お洒落な、別れの歌になるのか…
こんな、情熱の書が。
「書を捨てよ、町へ出よう」
この言葉を僕は寺山修司のものとして記憶していたけれど、もともとはここから来ていたらしい。
空想や思索にばかりふけっていないで、現実と触れ合おう。
そんな意味だと思っていた。
ところが『地の糧』を読むと、そうではないことに気がつく。その言葉の意味は、ヨルシカの曲想とも、寺山修司の言葉から僕がイメージしていたものとも違っていた。
では、どんな意味だというのか。
それは、
この世界について、
誰かが知ったことを教えてもらうんじゃなくて、
自分で知ろう。
自分の分かりかたで知ろう。
そうでなければ、本当に分かることなどこの世界には何もない、ということだと、僕は思う。
この本には、書物に倦んだ著者が、書斎の外で、旅をし、見聞きし、考えたことが色々と書いてある。
では、なぜそれが「書かれなければ」ならなかったのか。
デカルトという哲学者がいた。
彼は学問を修めたあと、研究の道へ進むことなく大学を去った。「世界という書物」を読むために。
デカルトもまたジッド同様アツい男だったのだ、ということはできるだろう。
しかし彼は、神が創造した世界の真理はやはりどこかにあらかじめ書かれている、と考えていただろうし、だからこそ躊躇なく、読む、と言えたのだろう。
ここに、ジッドとの違いがある。
ジッドによれば、人は、その人の分かりかたでしか分かることができない。理性をつかえば、何事も、万人が同じように、理解できるというわけではない。
世界は、あらかじめ書かれてなどいない。だから、世界を読む(理解する)ためにはまず、世界を書かなくてはならない。
じっさい『地の糧』はそのようにして書かれた文章だと思うし、だからジッドはこの本を捨ててくれ、と書いたのだろう。
だから僕も、その主張についてだけ書いた。