By homely gift and hindered Words ——不器用な贈り物と、渡せなかった言葉が——
By homely gift and hindered Words
The human heart is told
Of Nothing —
“Nothing ” is the force
That renovales the World —
不器用な贈り物と渡せなかった言葉が
人の心に形のないものを伝える
形のないものは力となって
世界を作り変える
この前、友人が嬉しいことを言ってくれたのですが、
それに対して僕の方はといえば、
その場でうまく言葉を返すことができませんでした。
数日経って、
あの時ああ言えばよかった、という言葉が遅れて浮かんできて、
なんであの時に言えなかったんだろう、と後悔する。
そんなことはしかし、今回に限ったことではなく、
もうこれはしょうがないのかもしれないな、と諦めの気持ちも少しあります。
原詩をみてみましょう。
特に段落は設けられていませんが、
ダッシュの部分で区切れていると考えると、
詩は前後半に分かれます。
前の3行は受動態の文章。これを能動態に直してみると、
Homely gift and hindered Words tell The human heart Of Nothing —
不器用な贈り物と渡せなかった言葉が人の心に形のないものを伝える
これを受け身にした文章が、
The human heart is told Of Nothing By homely gift and hindered Words—
となり、原詩はさらにBy〜の部分を先頭に倒置した形になっています。
なぜ作者はこの文章を倒置で書いたのでしょうか。
まず考えられるのは、By〜の部分が強調したい重要な情報だということ。ここで少し作者の考えに思いをめぐらせつつ内容とからめて話をしてみると、
人の心に形のないものが伝えられる
というのは、そもそも「人の心」がモノとしての形をもっていないわけですから、
その心に伝わるものもまた、形のないものであるに違いありません。
そんなことは言われてみれば当然のことで、
問題は形のないものが「どうやって」心に伝わるのかではないのか。
そう考えた作者は「贈り物と言葉によって」という部分を強調するために、
文章を倒置で書いたのではないでしょうか。
そしてもう一つ、
倒置をすることで最初の1行がWordsで終わり、
最後の1行がWorldで終わる。
この音の対応、詩のリズムを洗練させるためにやはり倒置したのだ、とも言えそうです。
うーん…すごいな…。
ここから先は余談ですが、この詩のwordsとworldの美しい共鳴音を聴いているうちに、世界(world)は単数で、言葉(words)は複数であるということに、深い意味があるような気がしてきました。
この人にあれをプレゼントしてあげたいとか、
この人をああいう場所に連れて行ってあげたいとか、
そういうことを考えるとき、
そういう「想い」のほうが先にありますよね。
想いはそもそも抱いているもので、気付いたり気づかなかったりすることはあるにせよ、選ぶようなものではないし、
贈り物も、悩みながら選ぶということはあるにせよ、
最終的には単数に決定できます。(一度に複数の贈り物をするのはレアケースです。)
「想い」は言葉ではなく、ものを送ることで伝えることができる。
それは形のないものだけれど確かに伝わっている。
だからこそ、贈り物はモノとしての機能を超えて、
その人の世界を変えてしまう(renovateする)力を持つのだと思います。
想い、贈り物、そして世界。
このシンプルで力強い単数のものたちは、
それでもう生きていくには十分じゃないか、という気すら抱かせる。
しかし、と僕は思う。
それに対して、
しばしば遅れてやってきて、
しかも複数であり、
いかにもか弱いように感じてしまう、「言葉」。
それらはどんな意味を持つのだろう、と。
僕の心とも響きあって鳴るこの詩と出会ってから、
そんなことも考え始めた、春の今日この頃です。
『THE COMPLETE POEMS OF EMILY DICKINSON』
THOMAS H . JOHNSON, EDITOR