【キャリコン視点】アイデンティティがテーマの映画6選【お勧め】
ドラマ・映画好きなキャリアコンサルタント xyzです。
以前、キャリコン視点でお勧めする映画をご紹介しました。第一回目のテーマは【自己肯定感】が上がる映画でした。
二回目となる今回のテーマでは【アイデンティティ】を取り上げてみます。
アイデンティティとは
【アイデンティティ】は英語で「自己同一性」という日本語訳がつくことが多いです。「存在証明」と訳されることもあります。
心理学的文脈で簡潔に表現するならば「自分とは何者なのか」という概念でしょうか。
キャリコンの試験勉強にもよく出てくる、エリク・エリクソンによる言葉で【アイデンティティ】は青年期の発達課題でしたね。
アイデンティティの感覚
【アイデンティティ】とは「わたしはわたしである」とか「わたしはわたしらしく生きている」といった確信に近い感覚のことです。
わたしがわたしであるという自信,すなわち【アイデンティティの感覚】は他者の存在によって支えられているものであることが強調されています。そして,この自信が青年に生きがい感や充実感をもたらすと考えられています。
エリクソンは【アイデンティティの感覚】として次のような定義をしています。
では、早速【アイデンティティ】をさまざまな切り口で捉えたxyzおすすめの映画6選です。
①ビューティー・インサイド(韓国)
◉アイデンティティとルッキズム
◉安定的に「自分」であり続けること
18歳になったある日突然、眠りから覚めると外見が変わってしまう奇妙な宿命を背負ってしまった男、キム・ウジン。
以来、ウジンの生活は一変します。男性、女性、老人、子ども、外国人など、毎日外見が変わってしまう為、人との関わりを最小限にして引きこもるように暮らすように。この秘密を知っているのは、母親と幼馴染サンベクだけ。
オーダーメイドの家具デザイナーとしてサンベクと共に仕事をしていたウジンは、アンティーク家具店の店員ホン・イスに一目惚れします。ウジンはイスに思いを伝えることができるか、イスはウジンを受け入れることができるのか……というストーリーです。
アイデンティティを考える上で重要な二つの要素、斉一性と連続性。
斉一性とは「自己をまとまりのある不変な同一の存在として認識していること」
連続性とは「過去から未来にかけての時間的な流れのなかでの自己の安定性が連続していること」
このウジンは、どういうわけか斉一性と連続性が失われている状態です。
外見は、アイデンティティ形成にも大きな影響を与える一要素です。そのうえ、人間が受け取る情報のうち、8割強はは視覚からの情報だという事実。(ちなみに聴覚1割、残りの1割で嗅覚、触覚、味覚)
全く一貫性のない外見と、一貫性はあるのに可視化できない内面。外見が違っても中身は同じ人間であるということをどのように他者からわかってもらえるのか、どうしたら自分だと認識してもらえるのでしょう。
また、ウジン自身も、毎日変化する外見と変わらない内面との乖離にどのように折り合いをつけているのか。外見が一定しなくても、アイデンティティを保ち続けられるのでしょうか。
カウンセラーに、自分の消化しきれない辛い思いを吐露した時のイスのセリフです。
ウジンだって変わった自分に一日では慣れないのだから、イスなら尚更そうでしょう。
これ以上イスを苦しめたくないウジンは、彼の方から別れを切り出し姿を消します。イスも傷つきながらも一度は別れを受け入れますが、やはりウジンを諦められず彼を追いかけます。
果たして二人はヨリを戻せるのでしょうか?
②サーチ(アメリカ)
◉アイデンティティと多面性
◉親の知らない子供の顔
十年前に妻を亡くしたデビッドは、高校生の娘のマーゴットを男手ひとつで育ててきた。ある日、同級生との勉強会に向かったはずのマーゴットが行方不明になる。家出なのか誘拐なのかわからないまま37時間が経過し……残された娘のPCからデビッドは手がかりを求めてSNSを調べ始める……。
全編を通してPC画面やwebカメラのレンズ越しに物語が進行し展開していく、斬新な手法のサスペンス映画です。
スピード感や臨場感、父親の心情などもリアルに伝わってくるようです。
デビッドがIT関係の仕事に従事していることもあり、インターネットリテラシーが高い!
鍵アカを開けてサクサクと娘のネット上の足跡を辿っていくところはちょっとコワいです……💦
親であるわたしとしてはデビッドの気持ちもわかりますが、かつて子どもだったわたしとしては、親に自分のSNSを無断で探られるのは正直勘弁してほしいという気持ち……。
SNSで繋がりのある数百人の「友達」に片っ端から連絡を取りますが、その中の誰とも真の友達付き合いがない事実にデビッドは頭を抱えます。
SNS以外(オフライン)の友達、となるともっと手がかりなし。
調べていくうちに、父の知らない娘の行動の数々が明らかになっていきます。
人にはいろいろな姿があり(多面性)そのどれもが彼女ではあるけれど、父親の知る娘の姿(=娘が父親に見せている姿)は彼女の一面でしかないことを思い知るリアルとは異なるネット人格、あまりにも希薄な、そして危なっかしいネット上の繋がりなど、デビッドはショックを受けます。
憔悴し、自分を責めるデビッドに、事件担当刑事ヴィックが慰めの言葉をかけます。ヴィックも、マーゴットと同世代の息子を持つシングルマザーです。
さて、デビッドは無事娘を探し出すことができるのでしょうか!
③クール・ランニング(アメリカ)
◉ナショナル・アイデンティティ
◉俺たちはジャマイカ人!
先週末に地上波でも放映されたばかりですね。
雪も見たことがない、ボブスレー競技歴3ヶ月のジャマイカ人4人組が、カルガリーの冬季オリンピックに国家代表として初出場し善戦する、という実話に基づいた映画です。
雪の降らない南国ジャマイカから(オリンピック代表級の短距離走選手とはいえ)ボブスレー初心者の4人組+過去の不祥事で鼻つまみ者になっている元金メダリストのアメリカ人コーチ、 自分たちのソリすら用意できていない、いろいろとツッコミどころの多い、そんな即成チーム……。
カルガリー冬季五輪のあった80年代は、人種差別的な当たりのキツさもまだあった時代……。
ちゃんとした名前がある個人なのに、「ヘイ、ジャマイカ!」と呼びかけられ、何も悪いことはしていないのに嘲笑されても、言い返すこともできないでいます。
試合の雰囲気に呑まれ、緊張と不安から他国強豪チームの真似をしようと必死なリーダーのデリースに対して、お調子者のサンカが言うセリフで
強豪スイスのやり方をなぞっても、萎縮して自信を無くしてしまったら、本来の力を発揮できない。
自分たちらしく。
ジャマイカ流で。
スタートの掛け声も、慣れないドイツ語はやめて、サンカ流にレゲエのリズムに乗ってラップ♫
ジャマイカ人としてのアイデンティティと誇りを取り戻した後、彼らの滑りに劇的な変化が生まれました。
ジャマイカチームはどんな結果を残したのでしょうか?
④HAFU(日本)
◉トランスナショナルアイデンティティ
◉疎外感に悩む人々の居場所探し
2人のハーフの女性監督が、3人のハーフと国際結婚した2家族の日常を撮ったドキュメンタリー映画です。
「ハーフ」は英語のhalf-breedのhalfから来ている言葉ですが、和製英語ということもあり、あえてローマ字表記の「HAFU」というタイトルになっています。
外見や言葉によって日本人と外国人を区別し、外国人を「他者」として認識するのが日本。
父母のどちらかが外国籍という国際結婚で生まれた子どもが「ハーフ」と呼ばれます。当事者の「ハーフ」達がこの現実にどう対峙しているのか、カメラは映し出します。
親の国籍、使用言語、育った国、生育環境、受けた教育などの違いから、「ハーフ」といっても様々な、複雑なバックグラウンドを持った人々です。勝手に望まないラベルを貼られるかなしみを抱えて生きています。
「ハーフ」と呼ばれる人々の中にはHalf(半分)という言葉を好まず「Double」や「Mixed」という言葉を使う動きがあります。
(そもそもhalf-breedは動植物の雑種という意味で用いられ、人に対して使う場合あまり良いニュアンスとは言えません。
自分のルーツを知られたら、昨日まで仲良くしていた友達が離れていってしまうかもしれない不安と恐怖。自分自身は何も変わらないのに。
自分の中にAとBの二つの国の部分が出てきたときに、どちらか分けて考えるうちに、どちらも嫌いになってしまった時期がある、とも話していました。
「ハーフ」と呼ばれる人々が異口同音に訴えるのは「疎外感」「居場所のなさ」です。
最後に「ハーフ」として産まれた自分の息子に対してのメキシコ人の母の言葉を紹介したいと思います。
自分のルーツに誇りを持ち、自分らしく生きることを後押ししてくれる母の存在の大きさを感じました。
⑤僕たちは世界を変えることができない。(日本)
◉アイデンティティを模索する時間、モラトリアム
一浪の末、医学部に入学したものの、
勉強に身が入るわけでもなく、なんとなく流されて生きているコータ。
そんな毎日に満足しているわけではないが、打ち込める「何か」が見つからない。偶然見かけた「カンボジアの小学校建設プロジェクトのボランティア」に興味を持ち、仲間3人でそらまめプロジェクトを立ち上げ、一緒にカンボジアでのボランティア活動を始める……。医大生が書いた実話に基づくストーリーを映画化したものです。
カンボジアを選んだのも偶然で、ボランティア活動もふんわりとした動機で始めたことでしたが、カンボジアに真剣に向き合うようになってから、コータの内面にも変化が生まれます。
何もない、無力な自分。
かっこつけず、わかった気にならず、自分の情けない姿を認め、全てをさらけ出して、必死になって人々の協力を仰ぎました。
その飾らないスピーチが聴く人の心を打ちました。
カンボジアに行って、ポルポト派によるクメール大虐殺の爪痕やHIVの蔓延、地雷原、学校ができても家の仕事を手伝うために学校に行けない子供達、などカンボジアの抱える厳しい現実をコータ達は目の当たりにします。
その経験のおかげで、ひ弱で都会っ子だったコータ達の心に、医師として生と死に関わっていく覚悟と、自分たちがカンボジアでできることを粛々と行なう決意と、医師(の卵)としてのアイデンティティが生まれたのです。
余談ですが、医大生を描いた日本映画『ヒポクラテスたち』に登場する女子学生みどりのセリフで、
「自分には人の生だとか、死だとかに携わる資格があるのかしらって思うのね」
というものがありました。
ただ勉強ができた「だけ」で医学部を目指し入学したみどりは、優秀な医師になる覚悟を持てないまま、自ら命を絶ってしまいました。
『ヒポクラテス達』は医師としての進路を決める医学生最終学年の1年間を描いた映画ですが、これも医学生としての最後のモラトリアム期間が舞台だったのですね。
みどりも、コータ達のカンボジアでの体験に類することが何かあれば、医師としての職業的アイデンティティを形成することができたかもしれず、もしかしたら死なずに済んだのかもしれません……。
⑥MADAME(マダム)(スイス)
◉アイデンティティとジェンダー
◉マイノリティーの闘い
ブルジョワ(新興成金)階級に属する90歳の祖母と同性愛者の孫息子の間で交わされる本音のやり取りを、家族のホームビデオ映像、写真、留守電メッセージやインタビューと共に記録した、異色のドキュメンタリー映画。
祖母の生きた時代、父が生きた時代、息子が生きている時代、それぞれの時代のアーカイブとして観るのも興味深いです。
この映画の監督ステファンは、ブルジョワ一家の跡取り息子として周囲から期待される役割を演じ続け、祖母キャロラインからはお気に入りの孫として愛されてきました。
物心ついた頃には自分の性的志向をはっきりと自覚していたけれど、本当の自分を認めようとせず、ずっと隠して生きてきたステファン。自分を偽り続ける苦しみ。男らしく振る舞おうと頑張りながらも、自分は「本物の男」ではない、という恐怖。家族を失望させたくない、という跡取りとしての義務感。
自分らしくあろうとすると誰かを傷つけてしまうかもしれない、とステファンはずっと本当の自分を隠し我慢し続けましたが、大学でLGBTQの活動家として活躍を精力的に始めました。
一方、家父長制が敷かれた保守的なスイスで強制結婚、その後離婚など「女性である」ことで窮屈な思いをしながらも、職業婦人として成功を収め財を成したブルジョワ(新興成金)層の祖母。
祖母もまた、当時の体制下ではマイノリティーとして、自由を求めて奮闘しました。
ステファンも祖母も、社会におけるマイノリティーとして、古いジェンダー観に悩み、苦しめられ、それでも「自分らしく生きる」ことを求めました。
そんな祖母でも、孫には旧態依然とした「男らしさ」を求めてしまうのですよね……。
ステファンはついに勇気を出して、自分の性的志向(同性愛者であること)を両親、そして祖母に告白します。
ステファンは家族に、祖母に受け入れられるのでしょうか?
そのヒントとして、ステファンのセリフを置いておきます。
映画のラストシーンはとってもチャーミングなおばあちゃんの姿で終わります。
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何か気になる映画が見つかったら、是非ご覧になってみてください。そして、あなたが観た感想を是非教えてください。
最後まで読んでくださってありがとうございました。