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記憶販売

ぼんやりと駅のベンチで
行き交う電車に目を向けている。
雑踏の中にいるのに
孤独を感じる。
病院での診断結果が
頭の中を堂々巡りしていた。

「検査結果を説明します。」
そう言って
担当医は検査結果を見ながら
淡々と話し始めた。
確か最後に
カウンセリングを受ける事も
提案してくれたようだった。

まさか自分がそうなるとは、
全く考えていなかったので
医師の説明は、上の空で
頭に入ってこなかった。
病院を出て、
今駅のベンチに座っている。
途中の記憶が定かでない。
これは、ショックが
大きかったせいだと思う。

年々簡単なことが
思い出せなくなっていた。
名前や単語がすぐに出てこない。
年のせいかと思っていたが、
だんだんとひどくなるようで
もしかしてと思い
診察を受けることにした。
家族には話していない。

自分はこの後
どうなるのかと考えると
気が狂いそうな恐怖を覚える。
記憶を失くすことが、
これほど怖いとは
想像すらしていなかった。

ベンチから立ち上がる力も
失せてしまっていた。

「横に座らせて
もらってもよろしいですか?」
年配の男性が、
そう声をかけてきた。
その時、初めて気が付いた
ベンチの真ん中を独占していた。
「あっ、すみません。」と言って
横に移動した。
「いやいや、こちらこそ。」
そういって、彼は横に座った。

「さっきから
どうも様子がおかしくて
気になっているのですが
何か心配事ですか?
良かったら
話してみませんか
そうする事で少し楽になる事も
あるようですよ。」
見ず知らずの人間に
話す事では無いのに
何故かその時は、
話してみようという気になった。

「認知症て知ってますよね。
どうやら、
自分はそうらしいのです。
今はまだ、
そこまでひどくはないが
どんどんと自分の周りの事が
分からなくなって
最後には、
家族の事も、
自分の事さえも
分からなくなるのです。
その恐怖に今
押しつぶされそうに
なっているのです。
現在の医学では
完治できない病気らしい。」

「そうだったのですか。
あなたの様子がおかしいので
電車にでも飛び込まないかと
心配していました。
いや失礼しました。
偉そうなことを言うようですが
不安に思われる気持ちは
分かるような気がします。
アイデンティティが
無くなる事は死んだも同然と
感じるでしょうね。」
そう言ってしばらく
間を置いてから

「お力になれるかどうかは
わかりませんし
大きなお世話かもしれませんが
私の知人の
脳の研究をしている者に
一度相談してみては
どうでしょう?」
「脳の研究ですか?」
「はい、正確に言うと
記憶の研究です。」
藁をもすがる気持ちであった。
「ぜひご紹介をお願いします。」

紹介された研究所は
自然豊かな八ヶ岳山麓の
閑静な別荘地にあった。

「お話は聞いています。
どうぞお入りください。」
若い研究者で
想像していた
イメージと違った。
簡単な自己紹介と
病状の説明をした後
話が本題に進んだ。

「記憶と言うものは、
過去に体験した事
学んだ事、感じた事など
色々な集合体ですが
必ずしも、
全てが正しいものでは
ありません。
「記憶違い」と言う
言葉の様に記憶と言っても
自分の都合の良いように
無意識のうちに
書き換えている事も
多いのです。」
「私はこの点に注目しました。
記憶は上書きできる。
別の記憶と置き換える
事も可能であると思いました。
脳内の記憶を
電気信号の形で取り出し
保存し、再び脳内に戻す
研究をしています。
力及ばずまだそれに
成功していません。
記憶を上書きするところで
エラーが出る状態です。」
「私の仮説では
記憶にも免疫作用が有り
脳内での上書きは可能でも
外部からの上書きには、
拒絶反応が起こるようです。」

「もし記憶を失った脳であれば
拒絶反応は小さく失う前に
抽出しておいた記憶の上書きは
案外に可能ではないかと
考えています。
ぜひ協力をして
いただけませんでしょうか?」

「少し考えさせて
いただきたいのですが
もしもそれが成功したとして
記憶を上書きした自分は
いったい誰なのでしょうか?
以前の自分とは違う人間?」

「そうですね。
記憶を失くし
新しい記憶が上書きされれば
ある意味では
生れ変ったことになります。
たとえそうであったとしても
あなたはあなたであり
何も変わりません。」

それから、5年の月日が過ぎた。
彼は記憶をすっかりなくし
妻や肉親の事も
分からなくなってしまっていた。

「お目覚めになりましたか?」

「君は誰?ここはどこ?
すまない、頭が混乱している。」

「ここは、記憶研究所で
あなたはここで
新たな記憶の
上書きを受けています。」

「そうですか。
よく理解できませんが
今日は結婚記念日で
妻に早く帰ると
約束して出てきました。」

彼の頭には、
数年前の最後の記憶が鮮明に
蘇えっていた。

「そうですね。
ご家族もきっと
心待ちでいらっしゃる
事でしょう。
どうぞお帰り下さい。」
「定期的な調査が必要なので
落ち着いたらまた来てください。」
私はお礼を言って
付き添いの介護職員と
大急ぎで研究所を後にした。

八ヶ岳の空気は
とてもすがすがしかった。
少しずつ頭がはっきりして
もやっていた霧が晴れていくような
心地よい感じを覚えた。

今後、進む高齢者社会は
加速度的に
認知症患者が増え続ける。
記憶を失くすことは、
自分自身の死をも意味する。
現代医学のアプローチでは、
未だ解決方法が無い。
近い将来、
科学的アプローチで
新しい自分に
生まれ変わる事が
出来るようになるかもしれない。

脳内にチップが
埋め込まれたとしても・・・
取り戻す記憶に本人の望むバラ色の
思い出などをセットにした
記憶販売は、
近未来の成長産業になるだろう。










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