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送り出してくれた一人と見送った三人

#おじいちゃんおばあちゃんへ

というテーマがあるらしいと聞いて。
ちょうど先日、夏に亡くなった母方の祖母の納骨をした。
母方父方含めて四人の祖父母のうち最後の一人だった。
せっかくなので?四人について、早くに亡くなった順で少し話をしようと思う。


父方の祖父

実は私、この人に直接お会いしたことはない。
なぜなら私が生まれた年の春先にすでに亡くなっていたからだ。
(※私は秋生まれ)
今と違って映像や音声を簡単に記録できる時代ではなかったので、生まれてからずっと写真の中のだけの存在だった。
唯一聞かされていたのは、祖父が亡くなる少し前に結婚した次男(私の父)に子供ができたということを大変喜んでいたという話。
まだ性別のわからない私の誕生を心待ちにしてくれていた人が一人いたのだと、初めて聞いたときはうれしかったことを覚えている。

そんな祖父は大層なコレクター気質であった。
雑誌、切手、硬貨などなど……、父の実家には祖父が集めたコレクションがたくさん残されていた。
珍しい雑誌などは祖父の死後に大学図書館に寄贈されたものもある。
グッズ集めを始めたとき、あぁ、これは血なのかもしれないと思った。
会ったことも喋ったこともないけれど、祖父は私の中に生きているらしい。
写真の中だけだった祖父が30代を手前にしたころから私の中で存在感を増し始めた瞬間だった。

母方の祖父

父方の祖父と違って、母方の祖父とは面識がある。
あるどころか大変お世話になった人でもある。しかし、こちらの祖父も私が生まれたころにはすでに障害があり、往時の面影はほとんどなかった。

祖父はかつて個人で店を経営しており、その帰り道に事故にあったという。
バイクの祖父と乗用車の衝突事故であった。
脳と足をひどく損傷し、命に関わる大事故であったそうだが、運よく一命はとりとめた。
一方で高次脳機能障害と足の不自由は残ることとなった、と聞いている。
実際、祖父は常に車いすで、杖なしでの歩行はできず、会話などもうまくできないことがあった。
なお、この事故の教訓から我が家ではバイクおよび飲酒運転(相手の車が飲酒運転だった)が蛇蝎のごとく嫌われている。
昭和のころの話なので事件化などはなかった今なら刑事裁判だったそうだ。
(すべて祖母、母、伯母からの伝聞なので実際のところは不明)

そんな祖父母の住む家は私の実家、そして小学校からほど近く、両親が共働きだったこともあり、学校帰りに必ず立ち寄っていた。
そこで宿題をしておやつをもらって、仕事終わりの母が迎えに来て家に帰る。それが日常だった。
幼い私は老人二人の家で遊ぶものもなく、祖父と一緒に大相撲と火曜サスペンスを見て過ごした。
たまに五目並べ(唯一のボードゲーム)を挑むとコテンパンに負かされた。
思えば、よくよく遊んでもらった。

そんな祖父は中学生の時に肺炎のため息を引き取った。大事故から20年以上、良く生きた方である。
身近な肉親の死は人生で初めてで、声を上げずに泣いたのもこの時が最初だ。
(その少し前に父方の伯父を亡くしたが年に数回会う程度だったので実感はなかった)

こちらの祖父は新しい物好きだったと聞いている。
実際、祖父母の家には昭和の最新家電などがごろごろ眠っていた。初期に発売された電動鉛筆削り(めっちゃでかい)は私が小学生の時も現役で仕事をしていたし。
移り気で新しいものが好きな性格はここから来たのかもしれないと思っている。


さて、早くに亡くなった祖父二人と違って祖母たちは大往生だった。
ここからはそんな祖母二人の話である。

父方の祖母

夫を亡くしてから30年近く、一人で暮らした人である。
私にとっては無条件で私のすべてを肯定してくれる唯一の存在だった。
祖母の子どもは私の父と伯父の男二人である。それゆえなのか、女の子が欲しかったといって孫娘の私を大層かわいがってくれた。
(別に弟のこともかわいがっていたので結局孫が可愛かっただけかもしれない)
遊びに行った時も、祖母が泊まりに来てくれた時も、どんな時も怒られたことが一度もない。
それどころか会うたびに「別嬪だ」と大層お褒めいただいた。

祖母が私をほめることは晩年、認知症が進んでからも変わらなかった。
すっかり私のことは忘れても、父から孫娘だと聞かされると「こんな別嬪な子がいたの」と泣いて喜んでくれた。
いろんなことを忘れてしまった後も人への感謝だけは忘れない、穏やかで優しい人だった。
(父曰く、やんちゃな男兄弟を育てたのだから優しいだけではないらしい)

そんな祖母が亡くなったのはコロナ禍が始まる少し前だった。職場で知らせを受けた私はその場で泣き崩れたのを覚えている。
成人したころから毎年祖母のために私が用意していた施設の部屋用カレンダーを買ったばかりだった。次の休みに渡しに行こうと思っていたのに、あっという間の出来事だった。
享年は98歳の老衰、大往生だと思う。
そうはいっても悲しいものは悲しい。棺の中の祖母を見て泣いて。葬儀で泣いて、出棺、お骨上げ、何かあるたびに泣いた。
四十九日の間は我が家にお骨が置かれていたので、毎日花の水を変えて線香を上げた。

もうずいぶん経つけれど、今思い出しても鼻の奥がツンとする。
きっとまだ、私は完全に祖母の死を受け入れられていない。

母方の祖母

この人には本当に一番お世話になったように思う。
亡くなったのは今年の8月、暑い暑い夏の日の夕方だった。
ちなみに同日の朝に仲の良かった義理の妹(祖父の妹)も亡くなっている。
揃って出かけてしまったような、不思議なこともあったものだと思う。

前述のとおり、母方の祖父母の家には幼いころに良く預けられていた。
祖父は遊び相手はできても世話はできないので身の回りのことはすべて祖母にやってもらった。
宿題の音読を聞いてもらい、わからない算数を教えてもらい、習字もリコーダーも全部祖母の指導である。
趣味も教わった。編み物や俳句をたしなむのは祖母の影響である。
高校生の時には父とケンカして真っ先に逃げ込んだのが祖母の家であった。
怒りもせず、深くも聞かず家においてくれたので結局二週間居座ったのはいい思い出である。
(ちゃんと家出先を母に報告はしました)
厳しくも優しい、そんな言葉通りの人であった。
晩年は認知症で気難しくなってしまったけれど。

なお、私と母のやや神経質で潔癖な性格、丸顔、コロコロっとした体形は確実にこの人の遺伝子である。
母曰く母方の祖母の実家に行った際、その母(私の曾祖母)も同じ体形だったらしい。女系の遺伝子が強すぎる。

そんな祖母は今年に入り急に体調を崩し、8月に亡くなった。享年は97歳である。
三人の子ども、三人の孫娘、曾孫、多くが駆けつけてからの死であった。
老衰とは言え、最後は苦しそうな姿を見てしまったので棺で静かに眠る姿に少し安堵した。
父方の祖母のときとはまた違う喪失感が未だにある。
しかし、先日の納骨を済ませてゆっくりと祖母の死が現実味を帯びていく感覚もある。
馴れ親しんだ、といえば母方の祖母の方であるはずなのに、不思議な感覚だ。


父方の祖父と入れ替わるように生まれて、三人の祖父母を見送った。
今思い返してもそれぞれ悲しいし寂しいし、ちっとも忘れられない。
四人(と父方の伯父)でこれなのだから両親の時が来たらどうなることだろう。冷静でいられる地自信が全然ない。
それでも、祖父母が全員旅立った以上、いずれは両親の番も回ってくるし、そのあとは私の番である。

自分の死は歓迎なのだが、家族の死は受け入れられないな、と思うと、もう少しだけ頑張って生きようと思わせてくれる。
最後まで、いろんなことを教えてくれた祖父母には心から感謝したい。


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