また、ハラスメントだって
ダイハラ、というものがあるらしい。
方言がハラスメントになるという話である。
世の中の人というか、メディアはハラスメント大好きだなぁ……、と思う。
以前にもちらっとマルハラの話を書いたが、なんでもハラスメントにすればいいという問題でもないだろうに。
まして、方言はその人が育った環境によるものである。バックボーンを否定するようなものはいかがかと。
しかし実際、ダイハラなるものというかそういういじりは受けたことがある。
生まれも育ちも大阪(ついでに両親の実家も大阪)の私は中高、大学で初めて県外(府外)の人と頻繁に会話する機会を得た。
まず言われたのは「会話が漫才のようだ」と「大阪弁が怖い」であった。
まぁ、他府県から見れば会話のテンポが速いし語尾のきつさはあるだろう。今にして思えば放っておいてくれの一言で済む話だが、まだ幼かった私は自分の言葉遣いは相手に不快感を与えるのだと衝撃を受けた。
同時期に親から言葉遣いが荒いと指摘を受けた(このことを両親ともに覚えていないのでたぶん適当に叱ったつもり)こともあり、それ以来言葉遣い、特に語尾やイントネーションにはものすごく気を遣うようになった。
結果、社会人になって言われるようになったのは「関西人っぽくないしゃべり方だよね」である。
私からすれば怖いって言われた、漫才って言われたから治したのに!!という感じだ。
電話の仕事をしていたこともあってかさらに標準語化に拍車がかかり、今では初対面で大阪出身を見抜かれることはほぼない。
これらの方言が怖いだとか、方言を話さないことに言及することは先ほどの記事によると「ダイハラ」に当たるらしい。
振り回された当事者から言わせていただくなら、今更名前を付けなくていいです、といったところである。そんなことより方言に寛容な社会を作ってくれ。
そもそも、何をもってして方言とするのであろうか?
いわゆる標準語と呼ばれるものはあるものの、今でも東京の下町と呼ばれるエリアでは江戸言葉が生き残っている。
東京にすら「方言」は存在するのだ。
一方、イントネーションや一部の表現については京都を中心に同心円状に広がっているとする説もある。
どこが日本語のスタートだ?という話である。
しかも言葉は時代とともに変化する。10年前の流行語が今や死語になっていたりする。
そんな余りにも流動的なものでハラスメントを作られてもなぁ……、あきれるしかない。
普段まとまりのない文章ばかり書いている身で言うことでもないだろうが、相手に意味が伝わって、最低限の礼儀さえあればそれでよいのではないだろうか。
マルハラにしろダイハラにしろ、だいたいモラハラにまとめてしまえることをわざわざ記事にするために細分化してややこしくしているだけのように感じた。
新たな言葉を増やすことは構わないがそれで傷ついたり余計な気を遣う人が出てきたり。
メディアとして発信するなら言葉の扱いを考えてもらいたいと思う。
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