あたらしい絶望のために
へいへい〜HEY、HEY フゥン
久しく書くことについてとやかくお気持ち表明かます雑文を近況を交えてたらたら垂らす真似をしようかなと思うのだが。だが?だー。gha!
zi! zi!
いかんせん数ヶ月、sueこの媒体に載せ続けてる怪文書の類はリハビリに近い有様で、元々ろくに69に54文章も書けやしない分際が本をとりあえず読んでそれっぽく取り繕ってあれこれでけえだけのことを言ってきただけじゃね?な有様無様。な私であるのだが、つくづくここまで文章の体裁というものを壊しすぎると他人に伝わりやすいなどという文章の機能たる伝達性を忘れることもしばしば増えてきた。
どちらかといえば誤配どしどしカモンなスタンスで、読み手は読んでしまったが最後、わからんわからんと考える労力でも養っとれ、とでも考えているのかおどれ、かよくわからないの一点張りでその場で思考停止して読み手がつかなくなるというのが私の書くものへの他人が起こす反応であろう。大方、私は他人に何かが伝わるかどうかという地平でやりとりをするほど繊細や感情的でもない。悲観的に捉えられてしまって拒絶の文体などとどやされて私の方が思考停止をかましたことがあるが、結局のところよくわからない言語化できないものに長年多くの人間が描くことに突き詰めてきたものがあるのなら、私は持ち得る語彙力を持ってその輪郭を濃くすることで感覚化できないか、という突き詰めの仕方をしている。と言い訳をしておく。多分こういうデッサン的というか、油絵の重ね塗りのようなものである気がするのだが、いかんせんその「言語化できない」あるいは「未だ言語化されていない地平」をどこに見出すのかという作業から書くことが始まる。ゴールは「未言語地平」の開拓であって、必ずしもそこにバイアスとなる教訓だとか、道徳心だとか、ましてや読み手を意識した併用で簡潔に、わかりやすい文章というものはことごとく諦めがついてしまった。
とはいえ伝達機能というテクストの持ち得る力を私は代償として殺すというのは、いささか、伝わる伝わらないの二項対立的な、いかにも極論、極致的といえようか、私はしばしば昨今の世の中な効率的な動き、まあ今に始まった事ではないが、正しく読む、あるいは正しく書くこと、というようなものが刷り込まれつつある。読みとは私においては伝達者の内面をは把握すること、だけではあるまい……!
私は触れる
触れることができる
触れることができない
私はほとんど幽霊にちかい
ご近所のようなものだ
遠い日の夢のようなものだ
軽薄な
辛辣な
情に熱く
無味無臭に冷たい
水を得た魚のように動き
岸壁のように硬直する
律動する血脈の
震える温度こそ
書き取りたいもの
じぶんとの差異が
実態を掴むオブジェクトならば
私はいつまでも醒めていたい
後ろ盾は捨てて
鋭い矛も手放して
雲の行き届いたこの部屋で
あなたがあしらうその掌に
素手で掴んだ非の弧を
回していたい
言葉の直進を夢見る時代は終わった…!いや、鼻からそれを求めている人類が今生多すぎる、それは合理性の基に生きすぎている、言葉とは曲線だ、遠近法や、積分、座標は縦横無尽に走り回り、読む主体によって結ばれる、線は緩やかな曲線を編むべきだ。定規など必要ない!!!
私は直進にこそ絶望を吐く!
そこに真理はない。緩やかに外堀を埋めていくように、狡猾な蛇が獲物を締め上げてゆくように周りを回って初めて輪郭を捕まえて仕舞えばよい、ぐっと、いきなり力を込めるのではなく、周縁からぞわぞわと、その肌の触り心地をたしかめ、弾力をたしかめ、黒子の位置を確かめ、少しずつ、しかし、確かに息の根を止めねばならない。首は身体と脳髄を繋ぐ陸橋であり、重要な梁であり、飛び越えるべき溝を繋ぐ糸である。
わたしはいままさにゴシゴシ文章の可能性を緩やかに絶望し信仰する、言葉があってよかった、言葉があってよかった。
お前には言葉があるか、無いと言い張れる言葉があるか、この私はお前であれどなけれど、私はそうではない、許された空間こそ、あなたが読むことでひらける、大きな暴力に屈するか、それを暴力ではないあなたの主観性で絞めあげるのか。