見出し画像

Creepy Nuts/Who am Iの歌詞考察

『危険なビーナス』で一足先に役者デビューを果たしたR-指定は、『閻魔堂沙羅の推理奇譚』『東京怪奇酒』と続々話題作に出演し、その演技は好評を博した。
対して「演技なんて絶対できねえよ!」とさんざん唾棄していたDJ松永はどうか。果たして、いつの間にかCreepy Nutsの雇用の手綱をしっかりと握っていた元テレビ東京・佐久間宣行Pに乗せられて、4月9日から放送される『生きるとか死ぬとか父親とか』に出演することが決まっている。

そんなふたりがCreepy Nuts本人役として出演したのが『バイプレーヤーズ~名脇役の森の100日間~』である。
1~3月、通称冬ドラマ期に放送された上番組は既に三期目を迎えた人気シリーズで、4月には映画の公開も控えている。
Creepy Nutsは件の映画の主題歌も担当している。これは彼らにとって初めての映画主題歌担当ということになる(『桐島、部活やめるってよ。』×『トレンチコートマフィア』はCreepy Nuts公式が認めてはいるものの主題歌ではない)。

「バイプレイヤーズの仲間たちやその絆にインスパイアされて制作したというミディアムチューン」
音楽ナタリーの記事より一部抜粋)

という本楽曲。
映画『バイプレーヤーズ』とのリンク具合や、タイトルの「Who am I」という語順のおかしさとその理由については最後に触れていくことにする。
さっそく見ていこう。

家はただ寝るための倉庫だ。
起きたら仕事に行く。ある時はタクシーでテレビ局、ある時はラジオ局、ある時は飛行機でライブハウス、ある時はクラブ。
そんな刺激的で無機質な生活に忙殺されていると、自分の輪郭が分からなくなることがある。

地元を出て早数年。
はじめて東京に出てきた時は驚きの連続だった。
エスカレーターは右側通行で、聞こえてくる言葉は老若男女を問わず標準語。保育園生の集団が公園で遊ぶ横を通りかかった時、まだ年端もいかないちびっ子たちがたどたどしい口ぶりで標準語を喋っていることに気づいてゾッとした。
彼らとは決定的に、遺伝子レベルで何かが違う。そう思わざるを得なかった。
世紀の大発見とでも言わんばかりに「東京は3歳児でも標準語しゃべんねんな」と友達に話すと、何とも言えない表情で一笑に付されたのは今でも覚えている。

仕事を終えて家に帰る。靴下をフローリングに脱ぎ捨ててベランダに急ぐ。タバコに火をつけて丸椅子に腰掛けると、一日の疲れが煙に昇華されていくような気分になる。
火をつける前に風呂を沸かせばよかった。
一瞬そう思ったけれど、面倒臭いから今日もシャワーで済ませることにする。

上京(という言葉は大阪を下に見ている気がして腹が立つから使いたくないが)した頃に比べれば、今は夢のような環境だ。
相方の狭い家に居候していた時代と今だったら、ファンの数はもとよりスタッフの数、"関係者"と呼べる人の数、生活水準、何をとっても今に軍配が上がる。
それでも、仕事が忙しければ忙しいほど、東京で人に会えば会うほど彼らと距離を感じることがある。
根本的に何かが違うのだ。
説明できるものではないのだが、どこかよそゆきの自分が顔を出してしまう。
自分以外のすべての輪郭が溶けて同化し、俺はより異質なものになったような気になる。

吸い殻が溜まった灰皿に、まだオレンジ色に光るタバコを押し付けて部屋に戻る。
靴下が散乱する床に投げ捨てたパーカーは、糸が切れた操り人形のようにその場に力なくしなだれた。
風呂に入ると、俺はシャワーの水量を最大にして自分の顔に当てた。
洗い流して欲しい。今日の疲れも、見ないふりをしていたら溜まってしまった家事の諸々も、耳に詰まった標準語も、そのすべてを洗い流して欲しい。

Who am I」「Who am I」「」「」「You & I」「You & I」で[ueai]で踏んでいる。

「覚えてる」「分かってる」「帰る」で[aeu]で脚韻。

住処を東京に移した時は、何もかもが今と違っていた。
丸の内のOLやサラリーマンはいつも自信に満ちた歩き方で、俺には到底相容れない場所だと思った。原宿や下北沢や高円寺の若者は俺と同世代のはずなのに装いがまるで違っていて、見るたびに"自分とは何かが違う"というモヤモヤは増した。

数年が経ち、今は過去の自意識過剰だった自分とある程度折り合いをつけられるようになった。
ラップが上手い、DJが上手いというアイデンティティの炎に薪を焚べながら、テレビやラジオへ活躍の幅を広げると社会的にも肯定されていくのを実感する。人の心を震わせるための選択肢とともに社会的責任も増していって、エゴサーチをすれば、俺たちが過度にキャラクタライズされたアイコンが画面上に踊る。
それが俺の同業者にどんな印象を与えるかを考えず、無邪気に自らの楽しさを追い求める彼らは気楽で羨ましい。

時間だけが経って 周りは変わって
俺たちは不安定 ごまかして笑ってる
(R-指定/使えない奴らより抜粋)

と歌っていた頃を思えば、今の俺を取り巻く環境はまさしく「赤の他人」である。
インターネットに疎い俺にとって、SNSアカウントのパスワードを覚えることはかなり難易度が高い。
数回間違えたら強制的に利用不能になってしまうような気がして、自分でアカウントを運用することは諦めた。若者のみならず、周りの大人が当たり前のようにSNSを運用しているのを見ると、不甲斐なさが募る。
表向きだけ立派になって、相変わらず中身はうだつの上がらないあの頃と変わらない。今日も何となく付けていたテレビの天気予報でにわか雨が降ることを聞いていたのに、傘を忘れてしまった。
家にはコンビニで買ったビニール傘が何本もある。掃除されていない仏壇の前に刺さった線香のように、また今日も一本が追加されては忘れてしまうのだろう。
黒いパーカーは徐々に強くなる雨が染み込んで重くなったように感じる。長年着続けているパーカーは、肩口の毛糸がほつれてしまっている。
周りの大人はしゃんと背筋を伸ばして、石畳の上を色とりどりの傘をさして自信に満ちた様子で歩いている。その間を身を屈めるようにしてするすると小走りで抜けていくと、傘から雨粒が滴り落ちてくる。

雨は等しく人に落ちてくるのに、どうして傘を持ち合わせていない自分だけが苦労するんだろう。
恨めしく思いながら空を睨んでも何も見えない。雨粒が顔面にぶつかって跳ねて、地面に落ちる。情けなさに涙が出てきた。
今の状況が、一部の世間からの心無い声と妙にリンクしてしまった。

インターネットが発達した現在、悪意は露骨に他人に伝わる。
露悪的なタイトルの方がPV数を稼げるからとSNSやYouTubeはどんどん先鋭化していき、それが拡散されて本人が意図せず目にしてしまうと否が応でも心を擦り減らすことになる。
顔も知らない、どこの馬の骨とも知らない奴らの戯言に耳を貸す必要なんてない。そんなことはとっくの昔に分かっている。頭で分かっているはずなのに、目にした瞬間はやっぱり落ち込んでしまう。

そんな意見を目にしたときは、その悪意の雨が止むのを待てばいい。
どうせ自分にはどうしようもない出来事なんだから、極力俺がダメージを喰らわないように自分をコントロールするしかない。
翌日の朝、濡れたパーカーも洗濯が終わりベランダで乾かし終わった頃には、情けなさや悪意の雨は蒸発して朝靄になっているだろう。経験則からして、得てしてそういうものだ。
そんな朝靄には唾を吐き捨てて、モヤモヤした心の澱は高慢な花の都・東京に置いていけばいい。コンクリートに叩きつけられた唾はキラキラと反射して、どこまでも朝靄とは馴染まないように見えた。
俺も定期的にフッドに帰って、旧友と昔のように遊び回っている。
何事にも意味を求めすぎる今だけど、俺にはこのビジネスには全くの無意味なこの時間がリフレッシュのためには欠かせない。

かの」「人」「の頃」「おえ」「あかの」「他人」と、三拍子の拍子の頭で[a]で頭韻(厳密には6/8拍子だが今回は無視する)。

「あかの」「あかの」「街並みと」「恰好」「役割と」「アカウント」「パスワード」で[ao]で脚韻。

似合わない」「見たこと」で[ia]で頭韻。

割」「れた」「パスワード」で[au]で頭韻。

ただぼんやり」「傘もない」「たまるかよハニー」「朝靄に」「いた唾は」「華の都に」「腹の足し」「なりゃない」「止まり」で[aaoai]で踏んでいる。

「フレンド」「ヘイト」で[e-o]で脚韻。

「かよわない」「言葉」「殺されて」で[(o)oa]で踏んでいる。

アカウント」はTikTokやInstagramなどどんどん増え続ける公式SNSアカウントと、自身が積み上げてきた数々の選択肢の比喩のダブルミーニング。
」は頭上にある空とインターネット・クラウドのダブルミーニング。
それに関連して、後者にとって「」は「ヘイトコメントに対しての心理的余裕/苛立ちを回避する方法」、「朝靄」は「悪意に満ちたコメントの波が収まった小康状態」を指す。

華の都」は「花の都・(都市名)」という慣用表現に加えて、落語の「はなの都」からの引用ではないだろうか。
細かくはリンク先を見てほしいのだが、要約すると、人の鼻の長さを自在に操れる"長短の団扇"を授かった喜六が団扇を使って金儲けをして、大阪(大坂)から伸びた鼻に乗って歩いて東京を物見遊山するという噺だ。
落語にも造詣が深いRのことだから恐らく合っていると思う。

Hookは頭と同じなので省略する。

地元は落ち着く。
冬は外で白く濁る息を吐き出して、息はゆっくりと上昇しながら空気の中に溶け込んでいく。東京のコンクリートに一切馴染まなかった俺の唾とは大違いだ。

大阪は東京と比べると"都会"がコンパクトだ。中心部から少し離れると雑多な住宅街や田園風景が広がっていて落ち着く。もちろん、東京も板橋や西武線沿いまで出れば似たような風景が見られるのだけれど、如何せん"都会"が広すぎて手に余る。
新築の実家から引っ張り出した着古したスウェットで街中を散歩すると、そこかしこに紐付けられた思い出がフラッシュバックする。
自転車で走っていたとき、車輪がハンドルに掛けていた傘に絡まって突っ込んだ田んぼ。
「白線以外のとこ踏んだらアカンねん!落ちたら地獄や!」とはしゃいで帰った小学校の通学路。
帰り道に悪童数人と作った即席の秘密基地と、跡形も無く消え去って残った空き地。
見た目以外にも土の匂いや虫の鳴き声、五感の全てが俺の記憶のトリガーになっている。

旧友と会えば、数年ぶりだろうとすぐに学生時代にワープできる。
埃を被った思い出や珍事件が色鮮やかに全員の脳裏に蘇り、そんなことあったなと笑える。
そして、仕事上のあらゆる悩みもカラッと笑い飛ばしてくれる。
上っ面の関係値ではないからこそ、何者かになってしまった俺を色眼鏡無しで殴ってくれる。
そして、「東京で売れる」という夢を掲げていた、俺の中ですらおぼろげな記憶を掘り返して諭してくれる。
失敗すら笑いに変えて生きる糧にしてくれる。そんな信頼感があるからこそ、地元に根を張って華の都・東京で攻め続けようと思えるのだ。

空に」「タバコの味」「またと無い」「まだこんなに」「あたかい」「華の都に」でVerse1に続いて[aaoai]で脚韻。
それに関連して「肩の重荷」「変わらんノリ」「ただのゴミ」「なあHomies」で[aaooi]で脚韻。
また、「手に」「抱えて」「笑って」「るから」で[a]の頭韻も絡んでくる。

息と」「街並みと」「スウェッ」「残像」「自分」「足」で[ao]/[io]で脚韻。

見慣れた」「色褪せた」「る」で[iaea]で頭韻。

「凹むな」「オチんな」で[ua]で脚韻。

どんなに」「俺らの」で[oa]で頭韻。

Verse1の「(東京に)吐いた唾」、Verse2の「(大阪に)白く濁る息」は、それぞれ自分が溶け込めていない/いる状況を対比的に表している。

新幹線で地元に降り立つとホッとする。
無機質な駅はせいぜい土産物の種類が違うくらいで他の駅と別に何ら変わらないし、出先に友達が来てくれた時は、地元で会うのとはまた違った高揚感がある。
けれど、何度聞いたか分からない「新大阪〜新大阪〜The next station is Shin-Osaka~」という説明を聞くたびに、無意識の身体の強張りがアンロックされていく。

地元に根を張って、その周りに流れる水を栄養に変えて、俺は東京で蕾んだ花を咲かせる。
その水は友達であり、心象風景であり、歩道橋だ。

Who am I」「Who am I」「景色」「貸せ」「You & I」「You & I」で[uaa]で踏んでいる。

貸せば」「場所で」「ただ」「黙って」「待って」で[(a)a-e]で踏んでいる。

俺にとっては根を張った場所が大阪だった。
では、渋谷の道玄坂のクラブで会ったあの後輩にとってはどうか。ビデオが擦り切れるほど武道館ライブを見たあの先輩にとってはどうか。
近畿地方の中でも田舎の方で育った人は大阪を目の敵にしていた。親から「大阪は怖いとこやからな」とさんざん言われて大阪に出てきたと言っていた。
そういう人にとっては、俺が生まれ育った大阪の空気も怖いもので、歩道橋もヨドバシカメラも目の敵の象徴だったのかもしれない。

仕事が終わり、興奮冷めやらぬままに乃木坂を歩く。
周りには高級そうな料亭やオフィスビルが立ち並んでいて、少し歩けば神宮球場や新国立競技場が見えてくる。
もしかしたら、と思う。
もしかしたら、少しの塵芥も許さないような全てが人工的なこの街で生まれ育った人もいるのかもしれない。きっと、そういう人にとってはこのコンクリートが俺にとっての歩道橋なのだろう。
東京に来た時には想像にも及ばなかったけれど、あの時の俺は大阪を怖がっていた何処ぞの誰かの親と同じだった。結局、東京への偏見が何もかもを敵に見せていたのだ。

信号待ちのタイミングで、充電が切れたワイヤレスイヤホンを外してふと空を見上げた。
「明るいもんやなあ」
ひとりごちた声は空へと消えた。相変わらず星は見えなかったが、前には見えなかったものがひとつだけ見えた。
信号が青に変わっても、ゴミ処理場か何かの最上階に設置された航空障害灯は遠くの空で赤いままぽわんぽわんと光っている。ある高さを超えた建物には、航空障害灯を設置して夜に光らせる義務があるのだという。
どこまでも人工的なこの街で、空に見えたものはやっぱり人工的な光だった。
それでも、前に見えなかったものが見えるようになった。
雨が降る東京の空はどんよりとしていて何にも希望が見出せない。そう勝手に思って悲観的になっていた時に比べると、これは紛うことなき進化だと胸を張っていい。

横断歩道を渡ってさらに歩いていくと、航空障害灯はビルの山に飲み込まれていった。
もう、俺は東京に被害妄想を抱くことはないだろう。
東京に住んでいる人も結局は俺と同じだと分かったし、東京の夜にひとり光っている大きな仲間を見つけたのだから。

山も」「止まない」「故郷かも」で[aao]で脚韻。

アイツや」「の子の」「して」(「まない」)で[a]で頭韻。

空の」「航空障害灯」で[oao]で脚韻。

「寝付けない」「俺みたい」「長い」「付き合い」「なりそう」で[ai]で脚韻。

「(東京の)」はVerse1,3で捉え方が変わってくる。
「何も見えず、無機質な東京の象徴」だったVerse1、「航空障害灯という自分と同質なものを見つけた希望」のVerse3。

(総括的な内容のため省略)

「使えない奴ら(R-指定名義)」、「月に遠吠え」と、望郷をテーマにした曲は三作目(原曲があった梅田サイファー名義「あいしてんで大阪」は除く)で、三作とも6/8拍子の楽曲だ。
インタビューを一部抜粋する。

──「Who am I」と「使えない奴ら」のトラックは6/8拍子という部分で共通してますね。
R-指定 映画の中で、SL(蒸気機関車)が1つのファクターになっていて、SLの輪転音とワルツのリズムは近かったりするので、それもイメージ源ではありますね。
音楽ナタリーのインタビュー記事より一部抜粋)

今作は映画の主題歌ということで、映画の要素がふんだんに組み込まれている。
どこまで書いていいものか判断がつかないので上記考察では映画要素は一切排して書いているが、ここではタイトル+‪α‬についてのみ触れたいと思う。
(予告編や記者会見動画などを確認した上で、その中にある内容のみ触れているのでネタバレは大丈夫なはず、ダメだったら連絡ください)

まず「Who am I」というタイトルは文法的には不適当である。
疑問形にするならば「Who am I?」にすべきだし、「I found who I am」的な文脈なら「Who I am」にすべきである。
Rが書く英語詞は文法的にはかなりあやふやなことが多いので今回もその類か?と思っていたが、映画を観たあとに考えは変わった。
今回のタイトルは意図して「Who am I」としている。

『バイプレーヤーズ』という作品は故・大杉漣の影響が大きい。
第1,2シーズンに出演し、第2シーズンの撮影終了直前に急死した彼は、『バイプレーヤーズ』において避けて通れないキーパーソンである。
今作で重要な役割を担っている出演犬・風(ふう)には、大杉漣が飼っていた犬の名前を拝借している。
ここに大杉イズムが受け継がれている、というのは早計なのだが、これ以上触れてしまうといろいろネタバレになりそうなのでやめておく(大杉漣が飼っていた風はチワワなのに作中の風デカくね?というのはご愛嬌である)。

少し遠回りしたが、犬の名前は「ふう」である。
今作のタイトルは「Who am I」、何を言いたいかは自明だろう。
『バイプレーヤーズ』の作品全体の意図を一言で言い表した秀逸なタイトルだと思う。
また、アウトロの蛙の鳴き声も映画内のマクガフィンである。

また、映画を観た上で歌詞を読み返すと(ああ、ここがこういうことね)と分かる仕組みになっているので、この曲を聴いて良いと思った人は映画を見ても損はしないし、またその逆も然りだと思う。

良かったと思ったらサポートして頂けると嬉しいです。今月金欠。
次のやる気にめちゃくちゃ繋がります。
ツイートもけっこう見てます。
ありがとうございます!
歌詞がまだ公式に発表されていないので、公開され次第間違っている箇所は修正します。
(4/20追記 ようやく歌詞を修正しました。それに伴い内容を一部改変しました。)

#音楽 #歌詞考察 #歌詞 #CreepyNuts #WhoamI #CreepyNuts_WhoamI #R指定 #DJ松永 #コンテンツ会議

ありがとうございます!!😂😂