[読書記録]火花
純文学に限ったことではないが、読んだ人の数だけ感想があるのが小説の良さだと思う。
その前提で、僕は僕の感じたことをありのままに書こうと思う。
この小説は神谷のことを書いているようで徳永の無力感と世間の目との闘いの物語だったように感じた。
成長物語、青春物語と言ったら過言だろうか。
芸人なのに早く話せないことに苛立ち、合コンでも無愛想に見える立ち振舞をしてしまう徳永は神谷と自分を比べ、己の無力感に苛まれながらも世間との折り合いをつけながら生きていく。
「いないいないばあ」を知らない神谷が世間の目を全く気にせず己の道を貫くのに対して、徳永はあくまで世間の目を意識せずにはいられない。
神谷のことを羨ましく、そして悔しさと憎しみさえ持ちながらもそれでも地獄と称する世間の中で生きていく。
それは僕たちふつうの人間なら誰しも感じるやりきれなさではないだろうか。神谷のように孤独の中で生きていければやりたいように出来る。けれど世間の目はそれを許してはくれない。
しかし同時に小さな婚約花火を万雷の拍手と歓声で迎え、一瞬の、そして一生の思い出を作り上げることの出来る人間に、世間に、希望を感じてもいる。
世間の目を蔑ろにしては、傑出して壮大なものを作ることは出来ないと本書は語っているように感じた。
徳永の描写よりも神谷の描写が圧倒的に多く、最初に読んだときには神谷を描いた物語のようにしか思えなかった。
しかし神谷の描写をひとつひとつ拾っていくと、信念がぶれぶれで発言に矛盾やほころびの多い変な人物として描かれているようにしか見えてこなくなってしまった。彼はなぜこのように描かれたのか。
描写される量としては少ない徳永の存在を引き立たせるためにわざとこんなにも奇抜な存在が必要だったのだと考えるようになった。そうとしか思えなくなってしまった。
衝撃的なラストも、より直接的に世間の目から逃れられないことを徳永が語るために神谷が道化を演じさせられたように見えてくる。
しかし徳永には神谷が必要だったのだ。神谷が「売れなかった芸人にも意味はあった」と語るように、徳永が世間の目を正面から受け止め師匠と仰いだ人間に痛烈に現実を突きつけることが出来るようになるには、神谷の存在が必要だったのだ。
ところで、火花というタイトルに込められた意味については何度も考えたがうまくまとまらなかった。
花火が「人間が生み出したものの中では傑出した壮大さと美しさを持つ」ものとして象徴的に描かれるので、その一部、つまり一人の人間(この作品では徳永か)を指しているようにも思えたし、神谷の語った「売れなかった芸人にも意味はあった」という言葉に重ねて売れた芸人を花火に見立て、売れなかった芸人達(火花)がいたからこそ成り立っている…そんなことも考えた。
しかしいまいちしっくりこないので、これはここまでにしておくことにする。
いくつもの解釈が可能な余白を残しつつ、しかしそれは無軌道に書かれたものではなく意図してそう書かれているように見える。自分の感想が全てとは思わないし、読み取れていないだけの意図があるのかもしれないと思わせる奥行きのある作品だとも思う。
純文学とはそういったものなのかもしれないと改めて思い知らされると共に、又吉直樹の描く物語の奥深さを味わう事が出来た一冊だった。