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[読書日記]むらさきのスカートの女

不思議な物語だった。
「わたし」が「女」を執拗に観察し続ける物語。
根底に感じたのは孤独感。

徹底的に一人称で書かれる物語は、丁寧に描写を追っていくとだんだんと私の姿が現れてくる。例えば、職場では「あの人は下戸」という風に言われ、飲み会にも誘われない。様々な人の噂話をしているのに、「わたし」の言動については話題に上がることはほとんどなく、職場でも疎外されているような様子が目に浮かぶ。家賃も払えないような状況で、一人の時にはテレビを見て横になっているしかない、他にすることもないような寂しい状況が描かれている。そんな私だったからこそ、むらさきのスカートの女に興味を持って友達になろうとしたのだろう。

ある人が読めば、ストーカー女が紫のスカートの女を執着的に観察して友達になろうとするものの、最終的にその女は私を裏切ってどこかへ消えてしまい、最後には紫のスカートの女の居場所に「わたし」が入り込むという、メリーバッドエンドのような物語として読めます。ある意味で、私は紫のスカートの女に憧れており、彼女のようになりたいと感じている節もあったので、そういう解釈もできます。
しかし、全く違う視点で見てみると、この物語は私の妄想の世界のようにも読めるのです。つまり、日野まゆ子という人は存在しておらず、孤独感に耐えきれなくなった私が紫のスカートの女を妄想で作り出し、その女性との関係を必死に語っているという奇妙な物語としても捉えられます。
さらに別の視点では、この主人公は家賃も払えず、友達もおらず、寂しい生活を送っている女性、つまり社会から見捨てられた女性の物語として読むこともできます。
このように、これがどういう物語だったのかという解釈が、単なる感想レベルではなく、根本的に全く違う物語として捉えることができる、実に奇妙な作品なのです。

芥川賞作品を読んでいて奇妙な物語はいくつかあります。例えば『コンビニ人間』や、一つ前に読んだ『破局』なども、その人によって考え方や感じ方が違う作品だと思います。しかし、今まで読んできた中で、「奇妙さ」というところに焦点を当てると、この作品は突出して奇妙な物語だったのではないかと思います。芥川賞作品にはこのような不思議な物語が多いのかもしれないと感じました。これからも読み進めていくつもりですが、こうした奇妙な物語に沢山出会うのかと思うとワクワクすると同時に不安にもなります。

あまりに奇妙な物語だったので、理解するのに他の方の書評もいくつか参考にしました。以下にリンクを貼っておくので、ご興味のある方はこちらも読んでみてくださいね。


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