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「心には再現性がない」という言葉から考えたこと

"本当に、心、精神の運動というのはダイナミックに起こる。でも、科学が要求するのは再現性・普遍性であるわけです。しかし、人間の心の動きって再現性があるわけがない。"

「こころと脳の対話」

"例えば誰かに会うのが楽しみでしょうがなくて、会ったらもっと深い意味で楽しいと気がつきはじめて、嬉しくなりはじめた時の心の動きというのは、再現できない。「もう一回やってください」と言われても、やっぱりそれはできない"

「こころと脳の対話」

本を読むとき、文脈の中で自分の言葉と出逢うような感覚に陥るときがある。
簡単に言えば「あぁ、私が感じていたことはそれだったんだ。」と、誰かの言葉が自分自身に気づく入り口になるとき。



先の文章は、臨床心理学者の河合隼雄と脳科学者の茂木健一郎によって書かれた「こころと脳の対話」という本の一節で、これを読んだとき「再現性をもって絵を描くのが苦手だ」と自覚した小学生の頃を思い出した。


一度描いたことがあるものを描くというのが、同じ字を書く時とは明らかに違くて、例えば「あ」をもう一度「あ」と書くようなことを求められていると感じると、ひどく困った。

厳密には"同じ"というものは一つもないんだろうけれど、それでも再現性や普遍性を感じるものに出会うとすごいなと思う。(自分はそれを意識してできないから)


絵を描いていると「この感じで(過去の作品をみて)」とか「人気がある作品のテイストでたくさん描いたらいいよ」と意見をもらうことがあるのだけれど、「それでいこう!」と心が動かない自分がいることに気づいてしまい、どうしたもんかと思う。

それらの意見が建設的なことだと分かりつつも「その時、その人(その対象)との間にだから生まれたもの」という感覚の方が強く、何かを再現することを起点に描こうとすると描いている実感がまるでなくなってしまう。


それは絵を描くことに限らず、わたしの中で特に強い感覚なのかもしれない。



そんなことを「心の動きには再現性がない」という言葉から考えた時、自分自身の活動のキーとなるのは「こころ」だと改めて思った。

やりたいことと仕事をどう繋げるかを模索するようになって2年弱、いちばん不明確だったのは「原動力」で、お金や人気を得ること・「〇〇になる!」のような目標は綺麗事を抜きにしてもわたしの原動力にはなり得ないようだった。


どうしても体が動いてしまうのは、やっぱり心が動かされたときで、そのとき生まれたものは頭でやろうとした時にはない何かを秘めている実感が強くあった。


だとしたら、その心が動かされる瞬間に身を置いていくことと、ちゃんと「こころが揺れる」状態でいられる自分を養っていくことがまずやるべきことなのかもしれない。



なんとなくそれに似た予感はあったので、最近は日々の小さな「〇〇したい」をたくさん叶えるようにしていて、今月は大きなことだと富士山に登ったこと/小さなことだとパーマをかけたこと。

ちなみに次の「○○したい」はスカイダイビング(笑)


どれもこれも暮らしや仕事には直結しないけれど、不思議なことに「したい」を叶えていくと「できる」が広がっていくみたい。




再現性のない日々を生きながら、仕事や暮らしの可能性を広げていきたいと思う読書時間であった。

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