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僕が大学を辞めて個人事業主になった理由とその後の話

はじめまして!まるnoxiと申します。

自分で言うのも何ですが、僕は超!ポジティブ人間です。
しかしほんの少し前までは、自他共に認める超ネガティブ人間でした。


そんな僕が変わるきっかけとなった出来事や、
その過程を次のような方々に向けて書きました。


今のじぶんに満足してしておらず、将来が不安な人
仕事は頑張っているけど毎日がつらい、モチベがない人
やりたいことはあるけど中々実行に移せず、継続力が無い人
物事をつい深く考えてしまい、ネガティブから抜け出せない人
過去のトラウマや失敗がきっかけで、何事も諦めてしまった人


家庭環境や自分との葛藤を乗り越えた経験を共有し、
同じような悩みを抱える方々に
少しでも希望を与えられたらと思っています。


【ボクが大学生を辞めるまで:経緯と理由】

① 幼少期の家庭環境:親に敷かれたレール

僕は20年弱ほど、母の言うことに従って生きてきました。
というのも、僕は姉より少し頭が良かったことをきっかけに、
僕にこれでもかというほどの
英才教育を施してきたのがことの始まりでした。

医者になって欲しいという母と祖父母の期待を
背負わされた僕は、自分の意思なんて通りませんでした。
本当は遊んだり興味あることに触れたいのに、
それを真っ向から否定され、常に優秀であれと教えられ、
母の理想のレールに乗せられていました。

頑張った先には褒められもせず、
更に高みを目指すように言われました。
上手くいかなかった時は怒られ、失望され、
自分のやりたいことがあっても、
否定される幼少期でした。
「なんでも言ってね」と母に言われて素直に言ったら、
怒り口調を吐き捨てられました。
父親は、「仕事に忙しい」と言い訳を付け、
子育てに一切関与せず見て見ぬふり。

そんな環境なわけで、僕には当時、
誰にも助けを乞うことは出来ませんでした。

なので僕は小学2年生あたりから、
自分の意思を人に出すことを諦め、
勉強も将来も仕事も、母を喜ばせるために、
承認されるために頑張ってきました。
それが当たり前になっていたから、
その環境や思考の違和感に
気づくことはもなく、
親しい友だちにすら
「相談する」ということを知りませんでした。

母が勧めたレールに乗り、
褒めてもらうために、
自分の意思とは関係ない選択をする。
そうしているうちに自分は、
知らぬ間に誰よりも他責思考になっていました。
自分で選んだ選択ではないから、
母のせいにする。
褒めてもらえないから、
他で承認欲求を満たそうとする。

そんな麻痺した感覚を
自覚することもできずに迎えた17歳の冬、
親が僕の出来の悪さに失望して
あまりものを言ってこなくなった時期でした。


② 大学進路、最悪の選択:存在意義を失った言葉

依存体質の僕は、
親にまた振り向いてもらいたいと思い、
難関大の受験をすることに決めました。
それを聞いた親は喜び、
僕に塾の費用の投資をしてくれました。

しかしこれも、自分の意思選択ではなかったため、
勉強に没頭することもなく、
中途半端に成長していきました。
難関大はおろか、一般的な大学でさえ、
生半可な勉強では受かることはありません。

僕は受験を舐めていたこと、
そして自分の意思ではないこと、
目的が「親に認めてもらうため」という
曖昧なものだったため、
第一志望にしていた大学に見事に落ちました。

落ちたとき、ものすごく焦りが出てきました。
「また親に失望される」と思い、
自費も覚悟で浪人したいと伝えたら、
「頭良い大学じゃなくていいから、
もう現役で通いなさい」
「普通で良いから、普通の大学に行って、
普通に就職してくれればいいから」
と言われました。

僕はこの言葉を失望ではなく、
「僕に対する完全な諦め」と捉えてしまい、
自我を保つことが出来なくなってしまいました。
その後母に勧められた後期で受かった大学に
進学することになりました。

今思えば、これが最悪の選択でした。

自分の意思ではない他人が選んだ選択で
4年間過ごすわけなので、
燃え尽き症候群以前の話で、
まず勉強や活動に身が入らない。
なにか不都合なことがあっても、
責任感が持てない。

依存していた親に見捨てられ、
プレッシャーに耐えられなくなった僕は、
その感情を完全に蓋をするために
「難関大に受かった」と自分自身を偽り続け
洗脳することで、なんとか生きる希望を保っていました。

思ったとおり、勉強に身が入るわけもなく
怠惰で生産性のない日々を過ごしていた大学1年の夏。
いつも通りバイトをしていた雨の日、
突拍子もなく急に呼吸ができなくなり、
パニックになりました。

当時の店長に早退を伝え、家に着いた途端、
色んなネガティブ感情が一気に押し寄せてきて、
今までそんなこと思ったことなかったのに、
ふと本気で「死のう」と決意していました。
自決しているときの感覚は今でも少し覚えています。
段々と手足が痺れてきて、
身体の中の酸素が薄くなっていくことを実感し、
「ああ、俺死ぬんだな」と悟っていました。

普段夜遅くに帰ってくる父が、
何故かその日だけたまたま早めに帰宅したことで
助けられた光景を除いて、
このときの記憶はあまりないのですが、
死ぬ直前に仕事中の母に、
今まで溜めてきた言えなかったこと、
自分の意思を否定され続けてきたこと、
されて嫌だったことなど、
僕は初めて自分の意思を、
全てをぶちまけました。

そこから母の態度は一変し、
僕の意思を受け入れるようになりましたが、
僕はこの一件で、うつ病になりました。


③ 想像以上に苦しい日々:孤独との向き合い

うつ病になった後、当時働いていたバイトも辞めました。
僕はバイトが長く続かないことを自覚していたので、
今回の件で更に自分に嫌気が差していました。
(過去、半年続いたバイトはありません)

2020年はコロナ全盛期で、
大学の授業はほぼリモートで行われていましたが、
通いたくもない大学の授業なんて参加したくないので、
単位は0に等しく、留年なしでは卒業できない状況になりました。

授業も受けず、新しくバイトを探すわけでもなく、
自分の部屋でただ時間を過ごす日々でした。
Youtubeを流し見し、ゲームに明け暮れ、
外の光も浴びず、親ともほどんど会話せず、
友だちとも連絡を取らず、
かと言って将来の為になにか行動するわけでもない。
まさに典型的な引きこもりでした。

「自分がうつ病になった」という事実を
受け止めることが出来ず、
その現実を引きずる毎日。
「どんな人でも突然うつ病になり得る」
というどこかで聞いた言葉は本当だったんだなと、
絶望していたのをよく覚えています。

引きこもり生活中には、
ポジティブなことを考えるなんてまず無かったです。
頭に思い浮かぶのは、
過去の嫌な記憶と、母への憎しみばかりでした。

小さい頃僕は病弱の喘息持ちで、
咳をするといつも病院で怒られていたり、
人の顔色を伺って、
機嫌を損ねないように立ち回ったり、
僕がミスするたびに怒りと失望をぶつけられたりと
しんどい記憶ばかり呼び起されていました。

人に嫌われないために、十数年取り繕ってきました。
次第に僕は自分の意志を示すこともなくなり、
自分一人で抱え込むようになり、人に相談する
という大切なことが麻痺してしまいました。

この頃から、ネガティブな思考や、人の目を気にする傾向、
依存体質が染み付いていったのだと思います。
DV彼氏にいつまでも付いていく、みたいな
メンヘラ女の子の気持ちが少し分かるような気がします。

心のどこかで、この状況を抜け出したいとは思っていました。
しかし同時に、「うつだから」「きっかけがない」
「やる気がない」と言い訳をして、
行動を起こすことができずにいました。


④ 行動を起こすようになったきっかけ:光を見つけた瞬間

そんな生活を1ヶ月も続けていたある日、
ふとYouTubeであるクリエイターの動画を見ました。
その動画の演出技術は群を抜いており、
鳥肌が立ったのを今でも覚えています。
それを見た瞬間、幼い頃から抱いていた
動画編集への興味が再燃しました。

どうしてもこの人たちに会いたい、
関わりたいという衝動に駆られ、
「どうすればこの人たちに会えるのか?」と考えました。
そして、その動画の最後に表示された
協賛クレジットの中に、動画編集に関わっていそうな
会社のロゴを見つけたのです。

そこでまずはその会社に入ることを目指し、
独学で半年間、動画編集を勉強しました。
ポートフォリオを作成し、直接その会社に出向いて
「この会社で働かせてください」と直談判しました。
当時、その会社はスタッフ募集をしていなかったのですが、
僕の行動を評価してくださり、業務委託契約として
雇っていただけることになりました。
これが、僕が初めて個人事業主として働くきっかけとなったのです。

今振り返っても、当時の突発的な行動の原動力は不思議なものでした。
しかし、結果的に3年後、そのクリエイターさんと
コンタクトを取れるようになったので、
「あのとき行動してよかった」と心から思っています。


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【個人事業主になってから:苦悩と躍進】

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