【つの版】度量衡比較・貨幣103
ドーモ、三宅つのです。度量衡比較の続きです。
北米大陸への入植が続いていた頃、英国と欧州本土は宗教的にも政治的にも混迷を極めていました。欧州ではいわゆる三十年戦争が始まり、英国では宗教弾圧を行う国王に対して清教徒革命が勃発します。一方でオランダは国際貿易の中心地として富み栄え、黄金時代を迎えるのです。まずは三十年戦争から見ていきましょう。
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大戦前史
三十年戦争は、1618年から1648年まで続いた、欧州(主な舞台は神聖ローマ帝国)における諸戦争の総称です。カトリックとプロテスタント、ハプスブルク家とフランス・ブルボン家(カトリックですがプロテスタントを支援しました)の対立は欧州を二分し、史上最悪の大戦となりました。
ハプスブルク家は1438年以来神聖ローマ皇帝の座を独占し、ボヘミアやハンガリー、スペインやナポリの王位なども継承して、ローマ・カトリックを奉じる欧州諸侯王の盟主となりました。しかし16世紀に宗教改革運動が起きると、ドイツ北部諸侯や北欧諸国、ネーデルラントや英国はプロテスタントを国教とし、カトリックから離脱します。両陣営は様々な利害が絡み合いながらも抗争を続け、欧州は戦乱の巷となって荒廃しました。
1556年、皇帝カール5世は生前退位し、オーストリア大公・ボヘミア王・ハンガリー王・ローマ王である弟フェルディナント1世に帝位を譲り、スペイン王位とネーデルラントはナポリ王である息子フェリペ2世に譲ります。1564年にフェルディナントが崩御すると、帝位と諸王位は長男マクシミリアン2世に相続され、1576年にはその子ルドルフ2世が継承します。
歴代皇帝はカトリックでしたが、オスマン帝国など外敵に対処するためもあって国内のプロテスタントに対して寛容政策をとり、帝国の分裂をどうにか繋ぎ止めていました。1583年、皇帝ルドルフ2世は帝都をウィーンからボヘミアの首都プラハに遷し、プロテスタントに信仰の自由を認めています。1606年にはハンガリーにおける信教の自由も認められました。
しかし1606-07年、バイエルンの帝国自治都市ドナウヴェルトにおいて、市内で多数を占めるルター派の評議員がカトリックの祭礼を妨害し、権利を侵害する事件が発生します。皇帝ルドルフ2世は同市に対し警告しますが改善が見られず、やむなく「帝国アハト刑(法的権利と財産の剥奪)」の適用を宣言、弟でバイエルン公のマクシミリアンに強制執行を命じます。
これに対して帝国諸侯の一部はプロテスタント同盟を結成して抗議し、バイエルン公らもカトリック連盟を結成して対抗します。プロテスタント同盟にはフランスとオランダが、カトリック連盟にはスペインと教皇がそれぞれ味方し、両者はデュッセルドルフを首都とするユーリヒ=クレーフェ=ベルク連合公国の継承を巡って開戦しました(1610年と1614年)。
新教弾圧
1611年、ルドルフの弟でオーストリア大公のマティアスは混乱に乗じてボヘミアを制圧し、翌年ルドルフが崩御すると帝位につきます。彼はウィーン司教メルキオール・クレスルとともにカトリックとプロテスタントの融和を望んでいましたが、マティアスの弟マクシミリアンはクレスルを免職させ、1617年に従弟フェルディナント2世をボヘミア王に擁立します。
マクシミリアンもフェルディナントもガチガチのカトリックで、反動宗教改革を行おうとの野心に燃えていましたから、ボヘミアのプロテスタントはこれを認めず、対立を深めます。1618年5月には民衆がプラハ城を襲撃し、フェルディナントの家来3名を窓から投げ落とす事件が発生(第二次プラハ窓外放出事件)。3名は干し草の山に落下して命は取り留め、ウィーンへ逃げ帰ってプラハでの反乱を報告しました。
1619年、マティアスが崩御してフェルディナントが帝位につくと、ボヘミアのプロテスタント貴族らは英国王ジェームズの娘婿・プファルツ選帝侯フリードリヒ5世をボヘミア王に迎え、皇帝に反旗を翻します。しかし皇帝はバイエルンやスペインなどハプスブルク家、カトリック諸侯の支援を取り付けて迅速に行動し、1620年にボヘミアの反乱軍を粉砕しました。続いて各地の反乱も鎮圧され、プロテスタント同盟は解散に追い込まれます。これが三十年戦争の第一段階「ボヘミア・プファルツ戦争」です。
戦後、首謀者は処刑・追放・財産没収され、プロテスタントは激しく弾圧され、ボヘミアの住民はカトリックに置き換えられます。フリードリヒは選帝侯の位と領地を剥奪されてオランダのハーグに亡命し、欧州各地にボヘミアからのプロテスタントの難民が溢れました。
軍事経営
これに対し、フランスの宰相リシュリューは1624年にオランダ、英国、スウェーデン、デンマークと軍事同盟を締結し、ハプスブルク家による脅威を牽制します。彼はカトリックの高位聖職者(枢機卿)であり、国内においては反政府活動を行うプロテスタント(ユグノー)を弾圧しましたが、国外においては平然とプロテスタント諸国と手を結んだのです。対ハプスブルク家ということで遠くオスマン帝国も味方につけることが可能です。
しかし、おいそれと火中に手を突っ込めば危険です。オランダや英国は自国の領土防衛や海外での勢力拡大が大事ですし、デンマークとスウェーデンは同じルター派ですが主導権を巡って争っていました。結局スウェーデンはポーランドへの介入を行うこととし、1625年にデンマークが英国の支援を受けて神聖ローマ帝国領内へ侵攻を開始します。
皇帝軍を率いていたのはティリー伯ヨハンでしたが、長引く戦いで兵力が不足しており、傭兵隊長ヴァレンシュタインが私兵を率いて援軍と資金援助を申し出ます。彼は1583年にボヘミアに生まれたドイツ系プロテスタントの小貴族で、カトリックに改宗して傭兵となり、カネモチの老未亡人と再婚して遺産を手に入れました。これを元手に金融業や領地経営に力を入れ、領内に軍需工業を建設して武器弾薬や装備品を量産し、欧州全土から傭兵を募集して傭兵団を組織します。ボヘミアの反乱に際しては皇帝側について戦い、戦後に没収された財産を買い漁って大領主となり、皇帝に資金や私兵を提供して爵位を獲得していました。まさに民間軍事会社の経営者です。
皇帝は彼を皇帝軍総司令官(元帥)に任命し、デンマーク軍やプロテスタント諸侯の討伐を命じました。ヴァレンシュタインは3万の兵を集めて北ドイツへ出兵し、ティリー伯の軍勢と合流します。幸いプロテスタント側は複数の傭兵隊長がいがみ合って仲違いしており、ヴァレンシュタインとティリー伯の見事な戦術も功を奏して、皇帝軍は連戦連勝を重ねました。
従来の傭兵は現地調達(掠奪)を主な収入源としていましたが、これは占領地を荒廃させ、治安を悪化させて安定的な収入が得られなくなります。そこでヴァレンシュタインは占領地に治安維持のための軍税を課し、掠奪を禁じる代わりに税金を取り立て、傭兵たちに分配することにしました。占領地にとって重い負担であることにかわりはありませんが、農地が荒らされずに済むというメリットはあります。戦えば勝てるしカネが得られるというので彼のもとには続々と傭兵が集まり、デンマーク本土(ユトランド半島)に侵攻する頃には12万5000人にも膨れ上がっていたといいます。デンマーク王はこの大軍の前になすすべなく、1629年に皇帝と和睦を結びました。
ヴァレンシュタインはこの功績によって北ドイツのメクレンブルクに封じられ、公爵となります。皇帝軍元帥、北海及びバルト海の提督を兼ねた彼の抱える大兵力の前に従わぬ領主はなく、莫大なカネが彼の懐に流れ込みました。しかし急激に成り上がった彼は当然多くの諸侯から反発を買いました。そして1630年、スウェーデン王グスタフ2世アドルフが神聖ローマ帝国へと侵攻し、三十年戦争は新局面を迎えます。
◆神◆
◆櫓◆
【続く】
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