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【つの版】ウマと人類史EX34:以仁王乱

 ドーモ、三宅つのです。前回の続きです。

 平清盛と平家一門は後白河院派と協力して国政を牛耳り、日宋貿易によって巨万の富を貯えました。しかし後白河院派は次第に平家と対立するようになり、両者の亀裂はやがて臨界点を迎えます。

◆鎌◆

◆倉◆


院政停止

 鹿ヶ谷の陰謀事件により、平家の力は後白河院派を圧倒します。平家は高倉天皇とその皇太子・言仁親王を擁し、院の近臣を朝政から排除していきました。後白河院は平家との協力関係を修復しようとつとめますが、治承3年(1179年)6月に清盛の娘である白河殿盛子が6月に亡くなると亀裂が深まります。盛子は摂関家の近衛基実の正室で、夫が薨去するとその遺産の大部分を相続していました。彼女の遺産は養子の近衛基通(基実の子)か、彼女を准母(母に次ぐ者)としていた高倉天皇が相続するものと思われましたが、後白河院は近臣を管理者に命じて所領をすべて没収しました。

 基実の弟・松殿基房は、甥の基通が幼少であったため摂政・太政大臣・関白を歴任し、藤氏長者の地位についていました。彼は兄の所領を盛子から取り戻すべく後白河院に働きかけ、頼長の子・師長らとともに反平氏活動を行っていたのです。また清盛の嫡男・重盛が同年7月末に42歳で薨去すると、10月に後白河院の近臣が重盛の知行国であった越前の国守に任じられ、基房の子・師家は20歳の基通を差し置いて8歳で権中納言に任じられます。

 事態を重く見た清盛は、11月14日に福原から軍勢数千を率いて上洛し、クーデターを決行します。基房・師家・師長ら反平氏派の公卿や近臣39名が解任・左遷され、親平氏派にすげ替えられます。平氏派の受領も17名から32名に増やされ、日本国66州のうち半数が平氏派の受領に占められました。後白河院は恐れをなして清盛に許しを請いましたが、20日には鳥羽殿に幽閉されて院政が停止されます。その他の後白河院派も次々に粛清・追放され、所領没収などの憂き目に遭い、盛子の遺産は基通に相続されます。

 翌治承4年(1180年)2月、高倉天皇は数え3歳の言仁親王(安徳天皇)に譲位します。「治天の君」たる彼自身も摂政の基通も20歳でしかなく、母と妃の実家である平家一門と親平家派が後白河院派を排除して政治の実権を握ることになりました。しかし後白河院を幽閉したことから大義名分の面では問題があり、清盛自身も60歳を超える老齢で、存立基盤は脆弱でした。

以仁王乱

 清盛は高倉院を伴って厳島神社へ参詣に赴きますが、古来天皇が代替わりする時は石清水八幡宮と賀茂神社へ参詣するのが慣例で、両社は清盛に反発します。また後白河院派の園城寺/三井寺や興福寺も反清盛派で、3月には園城寺の大衆らが後白河院・高倉院を誘拐して平家討伐を呼びかけようとしています。後白河院はこれを聞いて平宗盛(清盛の三男)に打ち明け、陰謀は露見して失敗しました。続いて4月には後白河院の第3皇子・以仁もちひとが源頼政らと平家討伐の陰謀を巡らします。

 以仁王は母・妻とも院の近臣で、平家に近い血縁を持たないため皇位継承者から外れていました。また彼は堀河天皇の子・最雲法親王の晩年の弟子にあたり、彼から城興寺の寺領を相続しましたが、平氏政権は治承3年の政変に際して「出家せず俗人のまま寺領を治めるのは法親王の遺言に背く」として没収し、親平氏派の天台座主・明雲に与えました。言い分はもっともですが長年の所領を奪われた以仁王は我慢ならず、ついに決起したわけです。

 源頼政は清和源氏のうち摂津源氏に属し、摂津国渡辺(現大阪市中央区)を地盤として畿内で活動していた武家です。保元の乱においては美福門院側に、平治の乱においては藤原信頼を裏切って清盛側につき、没落した河内源氏に代わって清和源氏の長老となります。以後は平氏政権下で皇室や院の警固にあたり、武人のみならず歌人としても名を馳せ、治承2年(1178年)には清盛の推挙により74歳にして従三位に昇叙され、公卿に列しました。翌年11月には出家して家督を嫡男に譲っており、恩義ある清盛に背く理由はありません。『平家物語』では清盛の子・宗盛に馬の取り合いで侮辱されたためとしますが後付けくさく、当初は以仁王と側近たちだけの謀反で、頼政は後から巻き込まれたのではないかともいいます。

『平家物語』や『吾妻鑑』によると4月9日、以仁王は「最勝親王」と称し、諸国の源氏と寺社に平氏追討の令旨を下しました。令旨とは皇后・皇太子や親王らの命令をいいますが、以仁王は皇族ではあっても親王ではないため僭称ですし、文中には「最勝王勅」ともあります。宣者は頼政の子・仲綱とありますが、上述のようにこの陰謀に当初から頼政が加わっていたかは怪しいため、名を借りただけかも知れません。また令旨において以仁王は自らを天武天皇上宮太子(聖徳太子)になぞらえ、逆賊・仏敵たる清盛らを討伐して皇位につくことを宣言しています。

 この「令旨」を諸国の源氏に伝達したのが、源為義の十男で義朝らの弟にあたる行家です。彼は平治の乱ののち、姉の鳥居禅尼の嫁ぎ先である紀州熊野に逃れ、新宮十郎と称して隠れ棲んでいましたが、頼政に呼び寄せられて令旨伝達の使者に立てられ、山伏に扮して各地を巡り歩いたといいます。しかし5月に熊野別当(社僧)の湛増に怪しまれて陰謀が発覚し、行家はそのまま東国の頼朝のもとに身を寄せました。

頼政挙兵

 5月15日、以仁王は勅命と院宣により皇族籍を剥奪されて臣籍降下し、源姓を与えられて土佐国へ配流されることに決まります。しかし以仁王は三条高倉の自邸から逃れて園城寺に身を寄せ、21日に平氏は園城寺への攻撃を決定します。頼政はその大将に任じられていますから、平氏はこの時点では頼政が陰謀に加わっていたことを知らなかった(もしくは本来加担していなかった)わけです。ところが頼政は攻撃を行わず、21日夜に自邸を焼き払い、子の仲綱・兼綱ら50余騎を率いて園城寺に入り、以仁王と合流しました。

 園城寺では衆議が行われ、平家の本拠地・六波羅邸に夜襲をかけることが提案されますが、親平氏派が内部工作を行って議論を長引かせます。この間に平家は延暦寺に調略を行って親平氏側に引き戻し、園城寺を包囲します。やむなく以仁王と頼政は25日夜に園城寺を脱出し、興福寺を目指しました。

 平家側は宇治で彼らに追いつき、以仁王らは平等院に入って休息し、頼政らは宇治川の橋を落として防衛線とし、平家軍を迎撃します。『平家物語』によると、頼政らは盛んに矢を放って平家側を寄せ付けず、平家側では河内から迂回すべしとの意見も出ますが、下野国の武士・足利俊綱と忠綱父子(藤原秀郷の末裔、藤姓足利氏)らは「馬筏で流れを塞ぎ押し渡るべし」と主張し、自ら急流に馬を乗り入れます。坂東武者300余騎がこれに続いて宇治川の流れを弱め、平家側は対岸に上陸しました。ただ同時代の九条兼実の日記『玉葉』によると、平家の侍大将・藤原景高と弟の忠清の部隊が橋桁と浅瀬から川を渡ったといいます。

 やむなく頼政は撤退し、平等院に籠もって以仁王を逃そうと防戦しますが、衆寡敵せず一族郎党ともども自害に追い込まれます。以仁王は辛うじて平等院から脱出し興福寺を目指しますが、追いつかれて討ち取られ、乱は平定されました。しかし彼らが点けた火は天下に燃え広がり、平氏政権を打倒する原動力となったのです。

◆鎌◆

◆倉◆

【続く】

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三宅つの
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