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【つの版】ウマと人類史EX33:平氏政権

 ドーモ、三宅つのです。前回の続きです。

 1159年の平治の乱において、最終的に勝利したのは平清盛でした。朝廷も後白河院も清盛の軍事力と経済力を頼りとし、彼は正三位・参議に叙せられて武家として初めて公卿に列します。ここに清盛一門による日本最初の武家政権、平氏政権への道筋が開けたのです。

◆清◆

◆盛◆


太政大臣

 永暦元年(1160年)11月に二条天皇の母・美福門院が崩御すると、天皇は清盛の継室(後妻)である平時子を乳母(養育係)とし、清盛を自らの後ろ盾として厚遇しました。翌年には検非違使別当・近江権守・権中納言、その翌年には従二位・皇太后宮権大夫に任じられます。一方で清盛は後白河院庁別当も兼ね、応保元年(1161年)4月には異母妹の滋子を後白河院の女房として院の御所・法住寺に入御させています。

 滋子は以前から後白河院の寵愛を受けて妊娠しており、同年9月に男児(憲仁親王)を出産しました。時子の弟・時忠らは彼を皇太子に立てようと画策しますが、怒った二条天皇は時忠らの官位を解いて配流し、後白河院の政治行動を停止させます。清盛はこの件では二条天皇を支持し、関白・近衛基実に娘の盛子を娶らせて摂関家にも接近しました。

 しかし長寛3年/永万元年(1165年)6月、二条天皇は病に倒れ、数え2歳(生後7ヶ月余)の息子・順仁親王(六条天皇)に帝位を譲ったのち崩御します。藤原忠通は前年に、二条天皇を支えた藤原伊通(美福門院の従兄弟)は同年に薨去しており、基実が六条天皇の摂政となりますが、翌年7月に赤痢で薨去します(彼の荘園は正室である盛子が相続しました)。後白河院派は勢力を盛り返し、院政が復活しました。

 清盛は長寛3年正月に兵部卿、永万元年8月に権大納言、永万2年6月に正二位まで昇進していました。後白河院は同年に仁安と改元すると、自らの近臣を次々と公卿に送り込み、10月には憲仁親王を立太子し、11月に清盛を内大臣に昇進させます。翌年2月に清盛は従一位・太政大臣に昇進し、位人臣を極めましたが、実権のない名誉職であり、3か月後には辞任しています。

 摂関家でもない伊勢平氏の清盛が内大臣どころか太政大臣になるとは未曾有のことでしたが、彼の母が白河院の晩年の寵妃・祇園女御(あるいはその妹)であったとする説があり、「実は白河院のご落胤」という風説も当時からあったようです。異母妹の子とはいえ憲仁親王の箔付けにもなりますし、摂関家も清盛を外戚とするにはそれなりの出自がないと困りますから、事実はともあれ清盛派には結構吹聴されたようです。

 清盛の嫡男・重盛の出世も目覚ましく、応保2年(1162年)正月には従三位に叙せられて公卿となり、翌々年には正三位、仁安元年には憲仁親王の乳父・春宮大夫(養育係)、翌年2月に権大納言となり、5月には東山・東海・山陽・南海道の山賊・海賊を追討せよとの宣旨を授かります。ここに重盛は東国から西国に及ぶ軍事・警察権を委任され、清盛の後継者としての地位を確立するとともに、全国的な武家政権の長として承認されたのです。

平氏政権

 仁安3年(1168年)2月、清盛が病に罹って出家し、重盛も体調不良が続いたため、後白河院は急ぎ六条天皇を退位させ憲仁親王を即位させます。これが高倉天皇です。出家後の清盛は摂津国大輪田泊に「雪見御所」と呼ばれる邸宅を構えて「隠遁」し、日宋貿易を掌握しました。六波羅邸には重盛が残って一門を統率し、時忠も呼び戻されて公卿に列し、後白河院の近臣として活動します。後白河院と清盛は二頭体制で国政を掌握したのです。

 ただし、両者は一枚岩ではありませんでした。後白河院は天台宗における山門(比叡山延暦寺)と寺門(園城寺/三井寺)の対立において寺門派を支持し、仁安4年/嘉応元年(1169年)6月に出家して法皇となる際も園城寺の僧が受戒などを取り仕切りました。山門派は反発し、些細な事件を契機として年末に強訴を行い、院の近臣・藤原成親を配流せよと要求しました。

 後白河院は要求をいったん飲んでおいて、ほとぼりが冷めたら翻すというやり方でやり過ごしますが、怒った山門派の大衆は再び押しかけます。また清盛は延暦寺の僧侶から受戒していたため山門派で、平氏の武士による強訴の鎮圧を拒みました。結局山門派の要求は受諾されたもののうやむやにされ、後白河院と清盛の間にはやや亀裂が生じました。

 この溝を埋めるべく、翌年4月に後白河院と清盛は揃って東大寺で受戒します。これは鳥羽院と藤原忠実の例に倣ったものでした。同年9月、後白河院は清盛の住まう摂津国福原に御幸し、「天皇は夷狄を接見しない」という宇多天皇の遺誡を破って宋人と面会しています。また同年5月には奥州藤原氏の長・秀衡を鎮守府将軍に任命し、日宋貿易のために砂金を供出させました。後白河院と清盛の間には時に対立も生じたものの、両者は基本的に利害関係に基づいて協力していたのです。

 承安元年(1171年)正月に高倉天皇が元服すると、同年末に清盛の娘・徳子が入内し、翌年には中宮(皇后)に立てられます。外戚として権力を確立した平氏一門は隆盛を極め、全国に500余の荘園を有し、多数の公卿・殿上人を輩出しました。『平家物語』によると平時忠は「この一門にあらざれば人非人たるべし」と言ったといい、転じて「平家にあらずんば人にあらず」という慣用句となりました(時忠は高見王流の伊勢平氏ではなく、高見王の兄・高棟の末裔ですが)。

 後白河院はその後も毎年福原を訪れ、承安4年(1174年)には滋子(建春門院)とともに福原を経由して海路で安芸国の厳島神社に参詣しています。安元2年(1176年)3月には後白河院の誕生50歳を祝う宴が盛大に催されますが、同年7月に滋子が崩御します。相前後して高松院(二条天皇の中宮)・六条院・九条院(近衛天皇の中宮)が崩御し、政界は動揺しました。

鹿谷陰謀

 清盛と後白河院を仲立ちする建春門院の崩御は、両派の間にまたも亀裂を生じさせます。母を失った高倉天皇は清盛の娘を娶っており、元服も済んだことゆえ親政を望み、後白河院政派と対立します。後白河院は福原を訪れて清盛と談合し、亀裂を修復しようとつとめました。

 しかし安元3年(1177年)3月、山門の大衆がまたも強訴を起こします。これは加賀国において後白河院派の目代(代官)が寺領荘園を巡って争いを起こしたためですが、国司と目代は後白河院の近臣・西光(もと信西の家来で成親の義弟)の子らであったため、激怒した山門の大衆が彼に責任を取らせようと内裏へ押しかけたのです。後白河院は平重盛に命じて防がせますが、大衆の要求を受諾して引き下がらせた後、西光の讒言を容れて前言を翻し、「天台座主・明雲を解任・逮捕して所領を没収する」と宣告します。

 明雲は逮捕され京都へ護送されますが、大衆ら数千人に奪還されて延暦寺に匿われ、後白河院と山門派の対立は決定的となります。後白河院は激怒して近衛大将の重盛・宗盛らに「比叡山を攻撃せよ」と命じ、驚いた二人は清盛に判断を仰ぎます。清盛は上洛して後白河院を押し留めようとしますが拒絶され、近江・美濃・越前から武士が動員されて一触即発となります。

 6月1日夜半、清盛は「西光らが平氏打倒の謀議を行っていた」と称して延暦寺攻撃を中止し、手勢を率いて西光を捕縛、拷問にかけて「自白」を行わせたのち斬首します。藤原成親や、謀議の場とされた鹿ヶ谷山荘の所有者・俊寛僧都ら院の近臣も次々と拘束され、山門の大衆らはこの動きを聞くと比叡山へ戻っていきました。実際にこの陰謀があったかは怪しく、清盛が山門との衝突を回避し、院の近臣のうち反平氏派を排除するためにでっちあげたもの(疑獄事件)ではないかと思われます。

 成親は備前国に配流されたのち殺され、成親の子・成経は備中国へ流されたのち、俊寛および平康頼とともに薩摩国鬼界ヶ島へ配流されました。成経と康頼は翌年赦免されたものの、俊寛は謀議の張本人だとして赦免されず、その翌年に断食して自害しています。後白河院は処罰されなかったものの、メンツを潰されたうえ近臣を失い、清盛との関係は大いに悪化します。

 翌治承2年(1178年)11月には高倉天皇と中宮徳子の間に男児が誕生し、言仁ことひとと名付けられて立太子されます(のちの安徳天皇)。平氏一門は天皇と皇太子を擁し、後白河院派を政治から排除していきます。両者の対立が決定的になったのは、翌治承3年(1179年)のことでした。

◆清◆

◆盛◆

【続く】

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