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【つの版】ウマと人類史EX46:実朝暗殺

 ドーモ、あけましておめでとうございます。三宅つのです。前回の続きです。

 建暦3年(1213年)5月、和田一族の反乱を鎮圧した北条義時は、和田義盛が長年在任していた侍所別当を兼ね、政治・軍事の両面で鎌倉幕府の実権を掌握しました。しかし彼はあくまで鎌倉殿・源実朝の家来です。

◆鎌◆

◆倉◆


後継問題

 建保4年(1216年)、義時は従四位下に叙され、翌建保5年(1217年)には右京太夫となり、陸奥守に任じられます(前年に中原改め大江広元が10ヶ月ほど在任)。後任の相模守には12歳年下の弟・時房が任じられました。時房は元久2年(1205年)の畠山重忠の乱ののち遠江守・駿河守となり、承元3年(1209年)に政所別当、承元4年(1210年)に武蔵守となっています。義時の庶長子・泰時は時房より8歳若く、建保2年には父から侍所別当に任じられ、翌承久元年(1219年)には従五位上・駿河守に叙任されました。朝時は義絶を解かれたものの無位無官のままです。

 実朝は元久元年(1204年)末に後鳥羽院の叔父・坊門信清の娘を御台所(正室)に迎えていますが、夫婦の仲は良かったものの10年以上経過しても子が生まれず、跡継ぎ問題が持ち上がっていました。母・政子は建保4年(1216年)に実朝の兄・頼家の娘を実朝正室の猶子(養子)とさせています。しかし頼家には他に男子がいました。

 頼家の嫡男・一幡は、母が比企氏の娘であったため建仁3年(1203年)の比企氏の変で北条氏に殺されています。一幡の3人の異母弟はまだ幼児で、頼家が追放・暗殺されたのち、殺すのも忍びないと政子に引き取られます。次男の善哉は建永元年(1206年)に7歳で実朝の猶子とされますが、12歳の時に出家させられ、受戒して頼暁、のち園城寺の公胤阿闍梨の弟子となって公暁こうきょうの法名を授かりました。

 彼の弟の千寿丸は泉親衡の乱ののち出家させられ、京都建仁寺の栄西禅師のもとで栄実の法名を授かりましたが、のち和田一族の残党に担がれて追手に襲われ自害しています(諸説あり)。末弟は京都の仁和寺に入って禅暁の法名を授かりました。

 建保5年(1217年)6月20日、18歳の公暁が園城寺から鎌倉に帰還し、政子の命により鶴岡八幡宮の別当に任じられます。しかし彼にとって北条氏は実父と異母兄の仇敵ですから、次の鎌倉殿に選ばれる可能性は低いでしょう。彼は10月から「千日参籠」に入り、3年近く人前に出ぬことになりました。事実上の幽閉です。

鎌倉右府

 実朝は武家の棟梁ではあるものの夢見がちで、建保4年(1216年)には宋人の僧侶・陳和卿の「あなたはかつて宋の医王山の長老で、私はその弟子でした」という戯言を真に受け、由比ヶ浜から宋(南宋)へ渡るための唐船を建造させています。これは翌年完成したものの設計ミスで海に浮かばず、そのまま砂浜で朽ちたといいます。後には幕府と宋の間で商船が往来するようにはなりますが、この時の唐船建造は義時たちに諌められています。

 京都では土御門天皇が承元4年(1210年)に異母弟の守成親王(順徳天皇)に譲位して上皇となっていますが、実権は彼らの父・後鳥羽院が握り続けています。彼の女房には実朝の正室の姉妹がおり、院と実朝との関係は良好でした。実朝は特に功績もないまま出世を続け、建保4年には権中納言・左近衛中将、建保6年(1218年)正月には権大納言に、3月には左近衛大将・左馬寮御監に任じられ、10月には内大臣、12月には右大臣に昇進します。

 太政大臣に昇った平清盛はともかく、摂関家でも皇親でもない武家が右大臣に任じられるのは史上初で、父の頼朝の官位をも超えています。後鳥羽院は鶴岡八幡宮で昇任を祝う拝賀のために装束や車などを贈りました。

 しかしこの頃、母の政子は熊野参詣を口実として上洛し、後鳥羽院の乳母と相談して「院の皇子・頼仁親王を鎌倉に東下させ、実朝の後継者とする」ことを約束しています。実朝や義時に相談もなく決めるわけもありませんから、これは実朝と義時の意志でしょう。これなら頼家の子である公暁が鎌倉殿を継ぐこともなくなり、北条氏の政権も安泰というわけです。

実朝暗殺

 建保7年(1219年)正月27日、28歳の実朝は雪の降る中、鎌倉殿の守り神である鶴岡八幡宮へ右大臣昇任を報告する拝賀の儀式に臨みます。御家人たちのほとんどは鳥居の外に控え、石段には公卿が立ち並び、実朝は僅かな供回りを連れて本殿へ向かい、参拝を行いました。夜になって参拝を終え、石段を降りて来た時、頭巾を被った公暁が実朝に襲いかかります。彼は実朝の装束を踏んで転倒させ、「親の仇はかく討つぞ!」と叫んで頭に斬りつけ、首を打ち落としました。また仲間の法師数人が現れて供の者たちを追い散らし、石段の下に控えていた北条義時らしき男を斬り伏せます。しかし彼は義時ではなく、実朝の側近・仲章なかあきらでした。

 源仲章は宇多源氏で、左大臣・源雅信の後裔にあたります。父・光遠は後白河院の近臣として院判官代・河内守をつとめました。仲章は後鳥羽院に仕えつつ鎌倉幕府にも通じ、両者を連絡しつつ盗賊を追捕するなど在京御家人として活動しています。建仁3年(1203年)には阿野全成の子・頼全を処刑しており、建永元年(1206年)には鎌倉に下向し、実朝の侍読(教育係)となりました。要は後鳥羽院からの実朝へのお目付け役です。

 建保4年には5人から9人に増えた政所別当の1人となり、官位は相模守・大学頭を経て建保6年には従四位下・文章博士に昇り、順徳天皇の侍読を兼ねました。義時も従四位下・陸奥守ですから位階の上では同格ですが、田舎武士の次男坊に過ぎない義時よりは遥かに名門貴族です。

 八幡宮拝賀に際しては、義時が実朝に付き添って剣を持つ役(御剣役)の予定でしたが、道中で神の使いの白い犬を見かけたとたん体調不良になったため、仲章が役目を交替し、義時は自邸にいたと『吾妻鏡』にはあります。一方『愚管抄』では、義時は予定通り御剣役をつとめたものの、実朝が彼を八幡宮の中門にとどまらせ、仲章は松明を持って先導役をつとめていたとします。愚管抄は承久2年(1220年)頃に天台座主の慈円が編纂した史書で、吾妻鏡は文永3年(1266年)以後に北条氏が編纂させた史書ですから、義時は実際八幡宮にいたのかも知れません。

 実朝・仲章暗殺を義時や三浦義村(公暁の乳母の夫)、後鳥羽院の陰謀とする説もありますが、反北条派の残党に唆された公暁の単独犯とするのが穏当でしょうか。仲章は義時にとっては実際むかつく野郎だったかも知れませんが、後鳥羽院とのパイプ役が死んだとなれば大問題です。公暁は実朝の首を持って混乱する現場を離れ、後見人の備中阿闍梨の邸宅に戻り、三浦義村に使いを出して「今こそ我は東国の大将軍である。準備せよ」と言い送ります。義村は「迎えを送ります」と偽って答え、義時にこれを報せました。

 義時は「誅殺すべし」と答え、義村は部下の長尾定景(良文流相模平氏)らを派遣し、公暁を討伐に向かわせます。公暁は雪の中を逃げながら義村の邸宅までたどり着き、板塀を乗り越えようとしたところを討ち取られます。享年20歳でした。頼朝の庶子・貞暁、公暁の弟・禅暁、阿野全成の子・時元らはいたものの、北条氏からすれば彼らに鎌倉殿を継がせる余地はありません。ここに頼朝以来の源氏将軍は断絶することになります。

◆CONSPIRACY◆

◆THEORY◆

【続く】

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