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【つの版】倭の五王への道20・倭王武

ドーモ、三宅つのです。前回の続きです。

472年に百済は北魏へ使者を送り、対高句麗戦争を呼びかけますが、怒った高句麗は475年に百済へ攻め込みます。首都漢城(ソウル)は陥落し、王は殺され、百済はここに滅びました。その時、倭国はどうしたのでしょうか。

◆将◆

◆軍◆

百済復興

まず『三国史記』を見てみましょう。百済本紀は続いています。

近蓋婁聞之、謂子文周曰、「予愚而不明、信用姦人之言、以至於此。民殘而兵弱、雖有危事、誰肯爲我力戰。吾當死於社稷、汝在此倶死無益也、盍避難以續國系焉」。文周乃與木劦滿致・祖彌桀取[木劦・祖彌皆複姓、隋書以木劦爲二姓、未知孰是]、南行焉。(蓋鹵王紀

蓋鹵王は子の文周に「お前は逃げて国系を続けよ」と命じ、文周は木劦滿致と祖彌桀取を連れて南へ逃れます。

文周王、或作汶洲、蓋鹵王之子也。初毗有王薨、蓋鹵嗣位、文周輔之、位至上佐平。蓋鹵在位二十一年、高句麗來侵圍漢城、蓋鹵嬰城自固、使文周求救於新羅、得兵一萬廻。麗兵雖退、城破王死、遂即位。性柔不斷、而亦愛民、百姓愛之。冬十月、移都於熊津。(文周王紀

文周は新羅に救援を求めて兵1万を得、高句麗を撃退しました。しかし城は破壊され王は死んでいたので、ついに即位し、熊津に都を遷しました。ここは忠清南道の公州市にあたり、ソウルの南125kmで、韓国第三の大河・錦江南岸に位置します。漢城が漢江南岸にあったように、川を北の国境としたのです。高句麗は京畿道・忠清北道及び忠清南道の大部分を占領し、東は慶尚北道の北部を支配下に置いて、朝鮮半島のほとんどを征服しました。

十七年…秋七月、高句麗王巨連、親率兵攻百濟。百濟王慶、遣子文周求援、王出兵救之。未至百濟已陷、慶亦被害。十八年春正月、王移居明活城。(慈悲麻立干紀

新羅本紀にもこうあり、倭国は一切関与していません。では『日本書紀』ではどうでしょうか。雄略紀にこうあります。

廿年冬、高麗王、大發軍兵、伐盡百濟。爰有小許遺衆、聚居倉下、兵糧既盡、憂泣茲深。於是、高麗諸將、言於王曰「百濟、心許非常、臣毎見之、不覺自失、恐更蔓生。請遂除之。」王曰「不可矣。寡人聞、百濟國者爲日本國之官家、所由來遠久矣。又其王入仕天皇、四隣之所共識也。」遂止之。[百濟記云「蓋鹵王乙卯年冬、狛大軍來、攻大城七日七夜、王城降陷、遂失尉禮、國王及大后、王子等、皆沒敵手」]
雄略20年冬、高句麗王が大いに軍兵を発して百済を討伐し、滅ぼした。残党は城の倉庫に集まったが、兵糧は既に尽き、深く憂泣した。高句麗の諸将は百済王に「百済は叛服常ならず、これを見るたび茫然自失とし、恐怖を覚える。この国を取り除こう」と告げたが、王は「否。百済は日本国の官家屯倉、天皇の直轄地)で、その由来は遠い昔からだ。また百済王が天皇に仕えているのも、諸国が共に知っている」と答えた。『百済記』にいう。蓋鹵王の乙卯年(475年)冬、狛(こま、高句麗)の大軍が来て大城(都)を7日7夜攻め、尉禮城は陥落し、国王・大后・王子らは皆敵の手に落ちた。

見上げた忠誠心ですが、百済王が自分でこんなことをいうはずもありませんから、この部分はあからさまに日本書紀の造作です。滅んだのは秋でなく冬になっていますが、高句麗本紀では9月とありますから、秋から冬にかけての戦いだったのでしょうか。

廿一年春三月、天皇、聞百濟爲高麗所破、以久麻那利賜汶洲王、救興其國。時人皆云「百濟國、雖屬既亡、聚夏倉下、實頼於天皇、更造其國。」汶洲王、蓋鹵王母弟也。[日本舊記云「以久麻那利、賜末多王。」蓋是誤也。久麻那利者、任那國下哆呼唎縣之別邑也。]
雄略21年(476年)春3月、天皇は百済が高句麗に破られたと聞いて、久麻那利(くまなり、熊津)を汶洲(文周)王に賜い、その国を救って復興させた。時に人みないう、「百済国は既に滅亡したが、倉庫に集まって天皇を頼り、新たに国を造った」。汶洲王は蓋鹵王の[同]母弟である。『日本旧記』に「久麻那利を末多王に賜った」というのは、おそらく誤りだ。久麻那利とは、任那国の下哆呼唎県の別邑である。

百済復興のため、日本国(倭国)は自らの領地である任那の一部を割き与えたとしています。これも日本書紀の造作でしょうか。倭国は半島南部にまだ勢力を持っていましたから、多少の支援はしたかも知れません。なお久麻は百済の扶餘語で「都(固麻)」、那利は「川」を意味するといいます。熊(くま)の字を当てたのは倭語でしょうか扶餘語でしょうか。

『三国史記』によると、文周王は在位4年(3年とも)で大臣の解仇に殺されました。解仇は13歳の三斤王を傀儡として擁立しますが、翌年に誅殺され、三斤王も在位3年で薨去します。次いで即位したのが牟大(東城王)で、文周王の弟昆支の子とされ、以後しばらくは安定しました。このあたりの年代は混乱していますが、文周王が475-477年、三斤王が477-479年で、東城王の即位は479年となるようです。この年は雄略天皇の末年です。

『日本書紀』雄略紀には、こうあります。

廿三年夏四月、百濟文斤王、薨。天王、以昆支王五子中第二末多王・幼年聰明、勅喚內裏、親撫頭面、誡勅慇懃、使王其國、仍賜兵器、幷遣筑紫國軍士五百人、衞送於國、是爲東城王。是歲、百濟調賦、益於常例。筑紫安致臣・馬飼臣等、率船師以擊高麗。
雄略23年(479年)夏4月、百済の文斤王(三斤王)が薨去した。天王(天皇)は昆支王の五子の中で第二子の末多(牟大)王が幼年ながら聡明であったので、勅して内裏に召喚し、親しく頭と顔を撫で慇懃に戒め、その国(百済)へ派遣した。すなわち兵器(武器)を下賜し、ならびに筑紫国の軍士500人を遣わして護衛させ、国へ送って即位させ東城王とした。この年、百済が貢物を奉ることは例年より多かった。筑紫の安致臣・馬飼臣らは水軍を率いて高句麗を撃った。

倭国が百済の王位継承に介入しています。昆支の子の末多(牟大)は倭国にいたとありますが、これは父の昆支が倭国にいたとされるためです。

夏四月、百濟加須利君[蓋鹵王也]、飛聞池津媛之所燔殺[適稽女郎也]而籌議曰「昔貢女人爲采女而既無禮、失我國名。自今以後、不合貢女。」乃告其弟軍君[崑支君也]曰「汝宜往日本、以事天皇。」軍君對曰「上君之命、不可奉違。願賜君婦而後奉遺。」加須利君、則以孕婦嫁與軍君曰「我之孕婦、既當産月。若於路産、冀載一船、隨至何處、速令送國。」遂與辭訣、奉遣於朝。六月丙戌朔、孕婦果如加須利君言、於筑紫各羅嶋産兒、仍名此兒曰嶋君。於是軍君、卽以一船送嶋君於國、是爲武寧王。百濟人、呼此嶋曰主嶋也。秋七月、軍君入京、既而有五子。[百濟新撰云「辛丑年(461年)、蓋鹵王、遣弟昆支君向大倭、侍天王、以脩兄王之好也。」]
雄略5年夏4月、百済の加須利君(かすりのきし、蓋鹵王)は「[以前日本に送った]池津媛が[姦通罪で]焼き殺された」と聞き、「貢女が我が国の名誉を傷つけた。もう送るまい」と言って、王弟の軍君(こにきし、崑支君)に「お前は日本に行って天皇に仕えよ」と命じた。また加須利君は自分の妊娠中の婦人を弟に与え、「途中で出産したら船で送り返せ」と伝えた。軍君と婦人が日本へ渡ると、筑紫の各羅嶋(唐津市加唐島)で子が生まれたので「嶋君」と名付けられ、百済へ船で送り返された。これが後の武寧王で、百済人はこの島を主嶋と呼ぶ。秋7月、軍君は5子と共に入京した。『百済新撰』にいう。辛丑年(461年)、蓋鹵王は弟の昆支君を派遣して大倭に向かわせ、天王に侍らせて、兄王のよしみを修めさせた。

18年前に既に生まれていたなら、末多は幼年とは言えません。また461年はチャイナの史書では倭王興の頃で、雄略らしき武の時代ではありません。新羅や百済が倭国に人質を送ったことはあったので、こうしたことがなかったとは言い切れませんが、『三国史記』には蓋鹵王が倭国へ貢女や人質を送ったとか、武寧王が倭国で生まれたとかは全く書かれていません(武寧王の諱が斯摩とはあり、武寧王陵の墓誌には「62歳で癸卯[523]年に崩じた」とありますから、逆算して462年壬寅生まれです)。そも王子を妊娠中の妃を海の彼方へ行かせるでしょうか。昆支は東城王牟大の父で文周王の弟、蓋鹵王の子として見え、477年に文周王の大臣となり、同年に薨去しています。

『宋書』百済伝によれば、百済王餘慶(蓋鹵王)は大明2年(458年)に劉宋から百済の将軍11名に将軍号を承認されましたが、征虜将軍の号を受けた左賢王の餘昆を昆支とする説があります。左賢王は匈奴では君主の跡継ぎに与えられる称号なので、昆支は蓋鹵王の弟でなく子でしょうか。

ともあれ雄略天皇はこの年の7月に病気になり、8月に崩御しました。倭王武が劉宋に使者を送ったのは477年と478年、百済復興の直後です。時に劉宋は順帝劉準の世で、実権は彼を擁立した将軍の蕭道成に完全に握られており、蕭道成は斉王・相国の称号を得て禅譲まで秒読み段階に来ていました。

倭王武

興死、弟武立、自稱使持節、都督倭・百濟・新羅・任那・加羅・秦韓・慕韓七國諸軍事、安東大將軍、倭國王。(宋書東夷蛮族伝倭国条
昇明元年(477年)…冬十一月己酉、倭國遣使獻方物。(順帝紀

武は濟の時の称号に加え、百済をプラスした七国の都督諸軍事を自称して要求しています。しかしこの年には称号を受けられず、翌年再び上表します。

順帝昇明二年、遣使上表曰「封國偏遠、作藩于外。自昔祖禰、躬環甲冑、跋渉山川、不遑寧處。東征毛人五十五國、西服衆夷六十六國、渡平海北九十五國。王道融泰、廓土遐畿、累葉朝宗、不愆于歳。臣雖下愚、忝胤先緒、驅率所統、歸崇天極、道逕百濟、裝治船舫。而句驪無道、圖欲見呑、掠抄邊隸、虔劉不已、毎致稽滯、以失良風。雖曰進路、或通或不。臣亡考濟實忿寇讎、壅塞天路、控弦百萬、義聲感激、方欲大舉、奄喪父兄、使垂成之功、不獲一簣。居在諒闇、不動兵甲、是以偃息未捷。至今欲練甲治兵、申父兄之志、義士虎賁、文武效功、白刃交前、亦所不顧。若以帝德覆載、摧此強敵、克靖方難、無替前功。竊自假開府儀同三司、其餘咸各假授、以勸忠節」
順帝の昇明2年(478年)、倭王武は使者を遣わし上表して言う。「我が国は遠く辺境にあり、外で藩(垣根)となっています。昔から先祖(祖禰)は自ら甲冑をまとい、山川を歩き、休む暇もありませんでした。東は毛人(東国)を征すること55国、西は衆夷(西国)を服属させること66国、渡って海北(朝鮮半島南部)を平定すること95国。また中華の天子の徳を慕い、歴代朝貢して来ました。私は至って愚か者ですが、かたじけなくも先祖代々の跡を継ぎ、百済を経て天子に使者を送ろうと船を準備しておりました。ところが高句麗は非道にも百済を併呑しようと欲し、戦争はやまず、倭国の朝貢使節はしばしば滞る有様でした。私の亡き父(考)である濟は、憎き高句麗に報復するため兵を挙げましたが、私はにわかに父と兄(興)を失い、高句麗を打倒する計画はいま一歩というところです。私は現在喪中で、軍隊を動かすことは出来ませんが、兵を鍛えて父兄の志を実現したく思っております。もし天子の徳によって強敵を打ち砕くことが出来れば幸いです。私は勝手に開府儀同三司とか官位を自称していますが、正式に承認頂ければ、今後とも忠節を尽くします」

毛人55国と衆夷66国を合わせて121国は、隋書東夷伝倭国条に見える「有軍尼一百二十人、猶中國牧宰」の軍尼(くに、国造)に相当します。海北95国とは後漢書東夷伝にいう馬韓54国、辰韓・弁辰24国の計78国に17国を付け加えたもので、百済・新羅・任那・加羅・耽羅の諸国を含めていることは確実でしょう。もちろん倭国がいかに大国かをアピールするのが目的ですから、服属させた国の数は多ければ多いほどよく、卑彌呼の頃の30国のように地域大国でまとめず細かく分けて誇張しています。海北95国もどれだけ倭国に服属していたかは怪しいですが、気にすることはありません。

またこの上表文は春秋左氏伝・毛詩・荘子・周礼・尚書などチャイナの古典からの引用が多いことでも知られます。倭国の上表文担当者に高い漢文の素養があったか、劉宋の担当者や宋書の編纂者が筆を振るって造作したかは定かでありません。さて、結果はどうだったでしょうか。

詔除武使持節、都督倭・新羅・任那・加羅・秦韓・慕韓六國諸軍事、安東大將軍、倭王。
天子は詔して、武を「使持節、都督倭・新羅・任那・加羅・秦韓・慕韓六国諸軍事、安東大将軍、倭王」に任命した。
[昇明]二年…五月戊午、倭國王武遣使獻方物、以武爲安東大將軍。(順帝本紀)

惜しくも百済に対する都督号は省かれましたが、それ以外は通りました。また今回は臣下に対する称号の要求がなく、倭王の権威が以前より強まっていることを示すとも言います。

しかし所詮は名誉称号で、虚名に過ぎません。百済が北半分を奪われて弱体化したのは厳然たる事実です。劉宋が高句麗を討伐する兵を海の彼方へ派遣することも期待薄ですし、百済を見捨てた北魏にも頼れません。

宋斉梁

ところで、雄略天皇は479年8月に崩御したはずですが、チャイナの史書にはその後も「倭王武」が現れます。『南斉書』はこうです。

建元元年(479年)、進新除使持節、都督倭・新羅・任那・加羅・秦韓[・慕韓]六國諸軍事、安東大將軍、倭王武號為鎮東大將軍。(東夷伝倭国条

479年4月、斉王蕭道成はついに宋から禅譲を受け、斉の皇帝(太祖・高帝)に即位します。のち北朝にも斉国ができるため便宜上は南斉と呼ばれます。国家体制としては漢魏・魏晋・晋宋革命と同じく皇帝の姓と国号が代わっただけで大した変化はありませんが、祝賀のために諸国から使者が派遣されて新たに冊立されます。この時、倭王武は安東大将軍から鎮東大将軍にランクアップされました。しかし翌年に百済王にも鎮東大将軍の称号が与えられ、高句麗王はさらに格上の驃騎大将軍となっています。

蕭道成は在位3年で崩御し、子の蕭賾(武帝)は12年在位して大規模な検地を行い名君として讃えられましたが、493年に武帝が崩御すると国は乱れます。武帝の孫2人が即位するも相次いで弑され、蕭道成の甥の蕭鸞(明帝)は猜疑心が強過ぎて皇族を殺戮し、498年に崩御します。その子の蕭宝巻(東昏侯)が跡を継ぎますが狂った暴君で、501年に皇族の蕭衍によって弑されます。蕭衍は宝巻の弟宝融(和帝)を擁立し、翌年禅譲を受けました。皇族で同姓ですが疎遠だったためか、国号を斉からへと変えています。

そして『梁書』にこうあります。

齊建元中(479-482)、除武持節、督倭新羅任那伽羅秦韓慕韓六國諸軍事、鎮東大將軍。[梁]高祖即位(502年)、進武號征東大將軍。(諸夷列伝倭条
天監元年(502年)夏四月…戊辰、車騎將軍・高句驪王・高雲、進號車騎大將軍。鎮東大將軍・百濟王・餘大、進號征東大將軍。安西將軍・宕昌王・梁彌<台頁>、進號鎮西將軍。鎮東大將軍・倭王武、進號征東大將軍。鎮西將軍・河南王・吐谷渾休留代、進號征西將軍。(武帝本紀)

蕭衍(武帝)が即位すると、倭王武は鎮東大将軍から征東大将軍にランクアップされました。しかし高句麗王は車騎大将軍、百済王は征東大将軍(倭王と同じ)で、せっかく将軍号を貰っても大したアピールになりません。国際社会では名刺の肩書になるでしょうが、国力や軍事支援を保証するものではなく、弱体化した百済王と同格扱いです。

また南斉はともかく、梁から称号を授けられた倭王武が、雄略天皇本人かは判然としません。年齢的には生きていてもおかしくないですが、雄略が479年に崩御し、倭国から使者が絶えたので、梁が新王朝開店バーゲンセールとして勝手に官位を押し付けたのでしょうか。ありがたみがありません。

第一どれほど御大層な称号を賜って他国と競っても、チャイナの天子の下でどれだけ偉いか張り合っているだけです。その天子にせよ、蛮夷に華北を奪われたり、酒色に耽溺して臣下を殺したり弑殺されたり、実権を重臣に握られた傀儡だったり禅譲と称して帝位を簒奪されたり、実際は大した存在ではないことは蛮夷にだって理解ります。持っている権威や権勢、軍事力から言えば高句麗王と大して違いません。

治天下大王

ならば高句麗に対抗する「諸国の盟主」たる倭国王は、百済や新羅や任那加羅の上に立つ「諸王の王」、大王・天子・天王・皇帝を名乗ってもいいではないか、と考えてもおかしくありません。いまだかつて倭国は他国に征服支配されたことはなく(海の彼方の蛮夷の地ですから当然ですが)、王統だって高句麗に匹敵するぐらい古くからは…たぶん…あります。少なくとも百済や新羅よりは古いはずです。版図だって東は東北地方から西は朝鮮半島南部に及んでおり、小さめながら「帝国」、という言葉はまだありませんから、「天下」と呼んでも悪くない大きさです。

熊本県玉名市和水町の江田船山古墳、埼玉県行田市の稲荷山古墳からは、それぞれ銀象嵌・金象嵌の銘文が刻まれた鉄刀と鉄剣が出土しています。そこには、こう書かれています。

治天下獲□□□鹵大王世奉事典曹人名无利弖八月中用大鉄釜并四尺廷刀八十練九十振三寸上好刊刀服此刀者長寿子孫洋々得□恩也不失其所統作刀者名伊太和書者張安也(江田船山古墳出土銀錯銘大刀)
(表)辛亥年七月中記乎獲居臣上祖名意富比垝其児多加利足尼其児名弖已加利獲居其児名多加披次獲居其児名多沙鬼獲居其児名半弖比其児名加差披余(裏)其児名乎獲居臣世々為杖刀人首奉事来至今獲加多支鹵大王寺在斯鬼宮時吾左治天下令作此百練利刀記吾奉事根原也(稲荷山古墳出土金錯銘鉄剣)

「辛亥年」は西暦471年にあたります。「獲加多支鹵」とは「ワカタケル」と読み、雄略天皇の和風諡号「大泊瀬幼武(オホハツセ・ワカタケ)天皇」のワカタケにあたります。そのワカタケル大王が「治天下」、天下を治めているというのです。「斯鬼宮」とはヤマトの磯城の宮です。ここにヤマトの大王、倭王武、雄略天皇がひとつに繋がります。彼は即位後すぐに劉宋へと遣使して称号を得ようとせず、「治天下大王」と自称し始めたのでしょう。

古田武彦氏は「関東の大王でヤマトとは無関係だ」と言いましたが、彼の狂信する九州王朝説に都合が悪いからです。彼は頻繁にデタラメな憶測や口から出まかせの珍説を言い、指摘されても被害者ぶり、言葉を左右にして訂正しませんでした。なぜ未だに彼の言説が持て囃され、信じられているのか、つのは理解に苦しみます。そういう宗教なのでしょう。歴史関係に限らず、こうした人はかなり多いようです。まあつのもド素人なので偉そうなことは言えません。このコーナーもごく表面を紹介しているだけですし、深入りや安易な断定はやめておきます。あなたは自分で考えて下さい。

◆天◆

◆下◆

卑彌呼の死から230年が経過し、「倭の五王」の最後である倭王武=雄略天皇=ワカタケルは、ついにチャイナの冊封体制から距離を置き、独自の小世界に君臨する「治天下大王」を名乗りました。これより倭国からチャイナへの朝貢記事は、史上120年に渡って途絶えるのです。

【続く】

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三宅つの
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