【つの版】邪馬台国への旅08:邪馬臺02
ドーモ、三宅つのです。前回の続きです。
邪馬臺國に着きましたが、まだ終わりではありません。今回は邪馬臺國の四つの「官」について見ていきます。よって、今回のタイトルは「への」より「での」と言うべきでしょうが、一応そのままにします。
◆合◆
◆体◆
四官
官有伊支馬、次曰彌馬升、次曰彌馬獲支、次曰奴佳鞮。
邪馬臺國には女王(近畿地方の倭人諸国を纏める邪馬臺國の王にして、西日本規模の広域倭人諸国同盟「倭國」の王を兼ねる)の他に、四つの「官」があります。すなわち伊支馬、彌馬升、彌馬獲支、奴佳鞮です。それぞれは何を意味するのでしょうか。仏教の四天王とは多分無関係だと思います。これは内藤湖南の『卑彌呼考』を参考にして読み解くことが可能です。
伊支馬
上古音 *ʔij *kje *mˤraʔ
「いきま」と読めます。ヤマトの地名や人名でそれらしいものを探していくと、奈良盆地の西側に生駒(いこま)山地があり、奈良盆地の北西部に生駒市があります。このあたりはかつて生駒郡と呼ばれましたが、その名がついたのは明治30年(1897)からで、それ以前は添下郡と平群郡でした。平群郡には生駒山の神を祀る生駒神社(往馬坐伊古麻都比古神社)があります。
人名でいうと、垂仁天皇の和風諡号が活目入彦五十狭茅(いくめいりひこ・いさち)天皇で、 活目尊とも呼ばれます。『日本書紀』によると纒向珠城宮、『古事記』では師木玉垣宮に宮居し、桜井市穴師に比定されています。まさに纒向です。しかし彼の陵墓は菅原伏見東陵、現奈良市尼辻西町の宝来山古墳(唐招提寺のすぐ北)とされ、奈良盆地でもかなり北に位置します。
この古墳が垂仁天皇にあたる人物の陵墓かは怪しいですが、奈良市には確かに菅原町があり、大和国添下郡菅原邑と呼ばれ、菅原道真の先祖はここに居住していたことから土師氏から菅原氏に改姓しています。ともあれ、どうもこの付近は伊支馬と関係がありそうです。
彌馬升
上古音 *m-nə[r] *mˤraʔ *s-təŋ
「みまし」「みます」と読めます。伊支馬の例から地名や人名を探すと、第五代天皇とされる孝昭天皇の和風諡号が観松彦香殖稲(みまつひこ・かえしね)天皇です。『日本書紀』では掖上池心宮、『古事記』では葛城掖上宮に宮居したとされ、現在の奈良県御所(ごぜ)市池之内周辺に比定されます。
陵墓は同じく掖上博多山上陵で、奈良県御所市大字三室にある俗称「博多山」に比定されます。実際そこかはともあれ、「ミマツ」の名を持つ首長が奈良盆地南東部の御所市、葛城地方にいたという伝承があるわけです。
この地域には高鴨神社、一言主神社などがあり、南の吉野川流域と奈良盆地を結ぶ要衝です。吉野川(和歌山県からは紀の川)を下れば和歌山市で海に出、対岸に淡路島や徳島県(阿波国)があり、淡路島南岸を西に進めば阿波国に到達できます(それで淡路島は「阿波(淡)への路」というのです)。
紀の川に向かい合うように、阿波の吉野川が東へ流れ、河口部に平野があります。その南の阿南市付近は那賀郡といい、古代には「長(なが)の国」と言って国造(首長)がいました。その長国造の祖は『先代旧事本紀』国造本紀によれば「観松彦伊呂止(みまつひこ・いろと)命」といい、事代主神ないし味耜高彦根命の子とされています。彼らは出雲系の神々で、大国主神の子であり、葛城地方に祀られています。ここでも「ミマツ」です。
『梁書』及び『南史』には彌馬升が欠落しています(ただの欠字です)。古い版本には「彌馬叔」と綴ることもあるようですが、読みは変わりません。
どうでもいいですが、『鋼鉄ジーグ』では九州の邪魔大王国の女王ヒミカの三大幹部がイキマ、ミマシ、アマソとなっており、彌馬獲支と奴佳鞮がいません。アマソはどこから持ってきたのでしょうか。
彌馬獲支
上古音 *m-nə[r] *mˤraʔ *m-qʷˤrak *kje
「みまかくき」と読むのでしょうか。稲荷山古墳出土鉄剣の銘に「獲加多支鹵大王」「乎獲居」という人名があり、それぞれ「ワカタケル大王」「ヲワケ」と読むようですから、獲を「わ」と読んで「みまわき」と読めます。
上二例に倣って人名を探すと、垂仁天皇の父・崇神天皇の和風諡号が御間城入彦五十瓊殖(みまきいりひこ・いにえ)天皇と言います。宮の名は磯城瑞籬宮/師木水垣宮で、奈良県桜井市金屋の志貴御県坐神社に比定されます。その陵墓は山邊道勾岡上陵(天理市柳本の行燈山古墳に比定)ですから、三輪山や纒向遺跡がある奈良盆地南東部、天理市および桜井市のあたりを「みまき」「みまわき」と呼んだのでしょう。三輪と纒向に関係がありそうです。
奴佳鞮
上古音 *nˤa *[k]ˤre *teː
「なかて」と読めます。内藤湖南はこれを中臣(なかとみ)氏に当てましたが、地名や人名、天皇の和風諡号にはそれらしいものがありません。しかしこれまでの通り、他の三官は奈良盆地の北西、南西、南東をそれぞれ領域とするようですから、奴佳鞮は残りの部分、奈良盆地中央部(中手=なかて、あるいは中処=なかと、でしょうか)の田原本町となりますね。ここには弥生時代後期の大型環濠集落「唐古・鍵遺跡」が存在します。
弥生時代には既に広い交易網を持ち、全国から土器や翡翠が集められ、銅鐸の製造中心地でした。銅鐸文化圏や銅矛文化圏という説は、九州でも銅鐸が作られ畿内でも銅矛が祀られていたから、として過去のものとされていますが、出土数からして弥生時代後期の近畿地方や東海地方に独特の形状の大型銅鐸を主に祀る文化圏がない、とは言えません。銅鐸も銅矛も銅剣も、一番大陸や半島の青銅器文化圏に近い北部九州に伝来するのは当然で、やがて地域によってその祭祀儀礼にバリエーションが生まれてきたのでしょう。
古墳時代に入ると唐古・鍵遺跡は突然衰退し、銅鐸も作られなくなります。代わって遥かに巨大な纒向遺跡が東の「彌馬獲支」の領域に出現し、前方後円墳が作られ始め、銅鏡が主要な祭具や副葬品となります。しかし戦争の痕跡もないため、彌馬獲支の國が奴佳鞮の國を滅ぼしたというよりは、同じ邪馬臺國の中で王宮が移転したのでしょう。それはそれで結構な変動ではありますし、単に王が代わっただけではとどまらない規模の、相当に重大な変化です。卑彌呼は纒向に住んでいたでしょうが、長年「なかて」と呼ばれていた地名は変えられなかったのかも知れません。
まとめ
こうして邪馬臺國四官の比定が完了しました。おそらく奈良盆地には古来四つの部族があり、「ヤマト」と称する部族連合を形成したのでしょう(あるいは三部族が連合して中央に「なかて」を築き、交易や製造の拠点としたか)。それが交易や外交を通じて勢力圏を広げ、近畿を統合する連合体となったものが、七万戸を有する「邪馬臺國」です。これがさらに投馬國・奴國などの国々と連合し、西日本を覆う規模の「倭國」の盟主となったのです。
『日本書紀』によれば、田原本町に宮を置いた天皇は孝霊天皇、和風諡号は大日本根子彦太瓊(おほやまとねこひこ・ふとに)天皇だけです。その宮は黒田廬戸宮といい、大和国城下郡黒田郷、現在の奈良県磯城郡田原本町黒田の法楽寺境内とされます。
次の孝元天皇は軽境原宮(橿原市大軽町)、開化天皇は春日率川宮(奈良市本子守町)ですから、その次の崇神天皇・垂仁天皇の代に纒向付近にヤマトの中心が遷ったという伝承は、考古学的にはそれらしい可能性はあります。もちろん古代の天皇の年代は相当無理して引き伸ばしており、様々な氏族の系譜伝承を後から繋げて作り上げたものでしょう。纒向以前の初期のヤマトの王は四部族の持ち回りで選んでいたのかも知れません。
「大日本(倭)根子彦」という諡号は国号が日本となった後につけられたものでしょうし、「大日本彦」「日本足彦」「大日本根子彦」といった諡号はいわゆる「欠史八代」に見られ、「神日本磐余彦」こと神武天皇ともども実在したかどうかも定かではありません。ただ系譜上、孝霊天皇の皇女に「卑彌呼ではないか」とされる倭迹迹日百襲姫命がおり、皇子に彦五十狭芹彦命(大吉備津彦命)や稚武彦命(若建吉備津彦命)らがいます。古代の系譜はおおむね後付ですが、少なくとも『日本書紀』を編纂した時代には、そのような血縁関係があると考えられていた、ということは言えます。
◆鋼◆
◆鉄◆
今回は以上です。次は卑彌呼について……の前に、「其餘旁國」と狗奴國、東海の彼方の「倭種」らについて見ていきましょう。これで倭人諸国の位置関係についてはおおむね理解(わか)るはずです。
【続く】
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