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【つの版】ウマと人類史09・歴山大王

 ドーモ、三宅つのです。前回の続きです。

 紀元前513年、ペルシア帝国の侵攻を撃退したスキタイは、イオニアの反乱やペルシア・ギリシア戦争を経てギリシアやトラキアなど反ペルシア勢力に味方し、交易によって富み栄えました。その後はどうなったのでしょう。

◆同◆

◆盟◆

希蠟没落

 ペルシア軍を撃退した翌年の紀元前478年、アテナイはエーゲ海沿岸のギリシア系諸国と対ペルシア軍事同盟を結成します。アポロン神殿のあるデロス島に本部を置いたことから「デロス同盟」と呼ばれましたが、アテナイが盟主として同盟諸国の内政にまで口出しするようになり、事実上はアテナイ海上帝国となります。逆らう国は無慈悲に潰され、富や人はアテナイに流れ込み、合法的に独裁者となった将軍ペリクレスの指導のもと、アテナイは黄金時代を迎えたのです。有名なパルテノン神殿の建設も、アイスキュロスやソフォクレスら演劇作家の活動も、ソクラテスの活動開始もこの時代です。

 これに対して、スパルタを中心とする反アテナイ諸国はペロポネソス同盟を結びます。ペルシア帝国はこれを支援し、前431年にはペロポネソス戦争(デロス同盟対ペロポネソス同盟の戦争)が勃発します。疫病やペリクレスの死で混乱したアテナイは、デマゴーグ(大衆煽動者)と呼ばれるクセの強い指導者たちが衝突して足を引っ張り合います。ギリシア世界全土を巻き込む30年近い戦乱の末、前404年にアテナイはスパルタに降伏します。

 諸国では親スパルタの寡頭政治が強制され、逆らう者は殺されます。やがてアテナイ、コリントス、テーバイなどは反スパルタ同盟を結成して立ち上がり、ペルシア帝国もこれを支援しました。前387年にペルシアの仲介で和約が成立したものの、前371年にはテーバイがスパルタ軍を破って覇権を握ります。しかし前362年にテーバイの将軍エパメイノンダスが戦死すると、テーバイも覇権を失い、ギリシアはさらなる混乱に陥ります。

愛馬覇王

 前359年、北方のマケドニア王国でフィリッポス2世が即位しました。彼は少年の頃テーバイのエパメイノンダスの家で育ち、その戦術を学んでおり、マケドニアの国政や軍制を改革して富国強兵を推し進めます。大きく国土を広げたフィリッポスは、やがてスキタイとも衝突しました。

 プルタルコスなどによると、この頃スキティアを治めていたのはアタイアスという王でした。彼の名を刻んだ銀貨も出土しており、そこには馬に乗って弓を引き絞るヘラクレスの姿も刻まれています。その拠点はウクライナ南部、ドニエプル川中流沿岸のカーミヤンシケ(カーメンスコエ)にあったと推測され、父祖伝来の領土を受け継いで長年在位しました。

 プルタルコスによれば、ある時彼はテーバイ人イスメニアスを捉え、彼が笛を吹くのを聴きました。人々は見事だと讃えましたが、王は「馬のいななきを聞くよりは素晴らしい」と微妙な褒め方をしたといいます。イスメニアスはテーバイの政治家で、反マケドニアのデマゴーグでしたから、それを皮肉った伝説でしょう。フィリッポスとは「馬(hippos)を愛する者」を意味しており、マケドニアは騎兵でも有名でした。

 前340年頃、アタイアスは南西へ進出し、イストロス(ドナウ)河口付近まで来て、ギリシア・トラキア系都市国家イストリアの王と戦いました。この頃フィリッポスは敵対する都市国家ビュザンティオン(イスタンブール)を包囲していましたが、海戦には慣れず攻めあぐねていました。アタイアスは彼に使者を派遣し、イストリアを南北から挟み撃ちにしようと提案して援軍を要請します。前339年春、フィリッポスはこれを承諾して北へ向かいましたが、到着した時にはイストリアの王が急死しており、アタイアスは「援軍は不要になったゆえ帰国されよ」と言います。

 フィリッポスは「ではビュザンティオン包囲に協力して頂きたい」と申し出ますが、アタイアスは拒みます。「ではここまで遠征した費用を支払って頂きたい」との請求も拒否し、こう答えます。「わしの土地は不毛なのだ。そなたは通常の戦を学んだ男たちの上に君臨しておるが、わしは飢渇と戦うことを学んだ男たちの上に君臨しておる。持っておるのは頑健な肉体、死を恐れぬ勇気、優れた馬だけだ。欲しくば戦場でお目にかけよう」。ナメられたフィリッポスは激怒し、スキタイとの間に戦いが勃発します。

 前339年夏、両軍はイストロス河畔で激突。先進的な戦法を修めたマケドニア軍は、昔ながらの戦法をとるスキタイ軍を散々に打ち破り、アタイアスを討ち取ります。さらに2万人の女子供を捕虜とし、同数の牝馬と多数の家畜を戦利品としました。しかし帰国途中、マケドニア軍は待ち伏せしていたトリバロイという蛮族に襲われ、戦利品を奪われた上にフィリッポス自身も脚に重傷を負ったといいます。以後、スキタイは弱体化しました。

 伝承によれば、アタイアスはこの時90歳もの高齢で、43歳のフィリッポスに対して「援軍に来れば王位を譲ろう」と言ったといいますが、にわかには信じられません。1世代30年抜けていれば60歳で、年齢的に違和感はありませんが、他国の王に戯れにでも王位を譲ると発言したとは思えず、マケドニア側のプロパガンダでしょう。彼の墳墓としては、規模や年代からチョルトムリク古墳がそれではないかと言われています。

 前338年、フィリッポス率いるマケドニア軍は南進してギリシア本土のボイオティア地方に迫り、テーバイ・アテナイ連合軍をカイロネイアの戦いで打ち破ります。エパメイノンダスは重装歩兵の弱点を突く「斜線陣」の達人でしたが、フィリッポスはこれをテーバイ軍を相手にやってみせたのです。この時マケドニア軍の騎兵部隊を率いていたのが、若き王子アレクサンドロスでした。テーバイはギリシアの覇権をこの敗戦で失い、マケドニアはコリントス同盟(ヘラス同盟)を結成して盟主となり、スパルタを除く全ギリシアの覇者となりました。しかし彼は前336年暗殺されます。

歴山東征

 フィリッポスの跡を継いだアレクサンドロスは、まだ20歳の若造でした。しかし敵対者を排除し、イストロス河畔やテーバイへ遠征して反乱を鎮圧すると、前334年にコリントス同盟の盟主としてペルシア帝国への大遠征に出発します。当時のペルシア帝国は建国から200年が過ぎ、王位継承争いや各地の反乱、総督の自立傾向の強まりなどで混乱していました。ちょうど彼と同年に即位したのがダレイオス3世ですが、すでに50歳近い壮年です。

 3万8000の大軍を率い、ヘレスポントス(ダーダネルス海峡)から小アジアに渡ったアレクサンドロスは、かつてギリシアの英雄たちが陥落させたというトロイア遺跡に詣でて戦勝を祈願し、ペルシアの小アジア総督の軍勢と戦います。ペルシア軍にはロドス島出身のメムノンというギリシア人の傭兵隊長がおり、ギリシア人の傭兵を率いていましたが、彼が焦土作戦を提案したため総督の反対に遭い、彼らをペルシア兵の後方に配置してしまいます。

 川を挟んで対峙した両軍でしたが、ペルシア軍は前面に軽装の弓騎兵を配置しており、マケドニア軍の重装槍騎兵と重装歩兵を抑えきれず、散々に打ち破られます。この敗戦で小アジアは瞬く間にマケドニア側へつき、メムノンはエーゲ海へ逃れて抗戦しますが、まもなく病死しました。

 アレクサンドロスはフリュギアのゴルディオンに到達しましたが、そこにはゴルディアスという王が遺した牛車があり、複雑な結び目で繋がれていました。いつしか「この結び目を解く者はアジア(小アジア)の王になるであろう」と言われましたが、アレクサンドロスは牛車を結ぶ縄を剣で断ち切って(あるいは留め釘を抜いて)結び目を解いたといいます。

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 前333年、アレクサンドロスはアナトリアとシリアの境であるイッソスに到達し、ダレイオス3世自ら率いる大軍と戦いました。マケドニア軍は4万、ペルシア軍は5万から10万と言われ、数ではペルシアが勝っていますが狭い地形で数の利を活かせません。味方が持ちこたえている間に、アレクサンドロスは自ら騎兵を率いて敵軍を蹂躙し、ダレイオスに襲いかかります。仰天したダレイオスは戦場から逃走し、ペルシア軍は総崩れになりました。ダレイオスの妻子や母までも捕虜となり、人質として丁重に扱われました。

 大勝利を記念して、アレクサンドロスは「(イッソスの)アレクサンドレイア」と名付けた都市をこの地に建設させました。現イスケンデルンです。アレクサンドロスは南下してシリア・フェニキア・パレスチナを次々と制圧し、前332年にはエジプトをペルシアの支配から解放して、ファラオに即位しました。彼はエジプト北部沿岸に港湾都市(エジプトの)アレクサンドレイアを建設しましたが、これが現アレクサンドリアです。

 前331年、アレクサンドロスはエジプトからシリアを北上してユーフラテス川を渡り、メソポタミア北部を横断して、ティグリス川のほとりに迫ります。ダレイオス3世は帝国存亡を賭け、20万から25万もの大軍を率いてガウガメラで迎え撃ちました。対するマケドニア軍は歩兵4万、騎兵7000しかありません。しかし歩兵も騎兵も重装備で十分な鍛錬を積んでおり、5倍ものペルシア軍に対してひけは取りません。ペルシア側も騎馬遊牧民が建てた国ですから騎兵は重視しますが、スキタイ同様に軽装の弓騎兵が主です。これはこれで侮れません。大部分は歩兵で、平地であるため鎌がついた二輪戦車もおり、インドから連れて来た戦象すらいます。数では勝っていてイッソスのように狭くもないのですから、大軍で包囲して殲滅しに来ます。

 これに対し、アレクサンドロスは先に動いてペルシア軍を動かすと、戦列に出来た裂け目を突いて、またも騎兵突撃を敢行します。狙うは全軍の中心にいるダレイオス。ペルシア軍は慌てて敵の総大将を揉み潰しにかかりますが、大軍ゆえに小回りが効かず、ダレイオスは戦車に乗って逃げ回ります。マケドニア軍の方も防御を突き破られますが、ペルシア軍は背後を突いて包囲するより敵陣を掠奪することに気を取られ、本隊は潰走してしまいます。ダレイオスはイラン高原へ逃げおおせたものの、ペルシア軍はまたも大敗を喫し、アレクサンドロスはメソポタミアを占領、バビロンに入ります。

 ダレイオスはザグロス山脈を越え、メディア地方の首都エクバタナ(ハマダーン)へ逃れて再起を図りますが、もはや形勢は覆せそうにありません。アレクサンドロスはバビロンからスサを経てペルセポリスに入り、キュロスの墓などを見物して掠奪したのち、壮大なペルシア帝国の都に火を放ってしまいます。さらに北上してエクバタナに迫ると、ダレイオスはさらに東へ逃走し、テヘラン近郊のラガーを経てバクトリア(アフガニスタン北部)を目指します。「カスピ海の門」という隘路を抜け、カスピ海南方のヒルカニア地方を通り、その東のパルティアまで着いたところで彼の命運は尽きます。

 前330年、ダレイオスに付き従っていたバクトリア総督ベッソスは、途中でダレイオスを捕らえ、暗殺します。その遺骸は牛車に放置され、ベッソスはそのままバクトリアに戻ると、自ら「ペルシア王アルタクセルクセス」を名乗りました。アレクサンドロスはダレイオスの遺骸を見つけると手厚く葬り、裏切り者を討伐し仇を討つと称して東征を続行します。

遠征続行

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 しかしパルティアから東のバクトリアへは直接赴かず、南下してアレイア(ヘラート州)やドランギアナ(ファラー州やニームルーズ州)、アラコシア(カンダハール州)などを制圧します。この時アラコシアに築かれたのがアレクサンドレイア・アラコートス、現カンダハールです。前329年には北上してカーブルに至り、ヒンドゥークシュ山脈を越えて南からバクトリアへ攻め込みます。ベッソスは恐れをなしてアム川の北へ逃げ、ソグディアナのナウタクまでたどり着きますが、豪族スピタメネスやオクシュアルテスが彼を裏切って捕らえ、アレクサンドロスに引き渡しました。彼は耳と鼻を削ぎ落とされ、ダレイオスを殺した場所に生きたまま磔にされたといいます。

 ここにペルシア帝国は名実ともに滅びましたが、アレクサンドロスは余勢を駆ってペルシアの版図を全て抑えることとし、遠征を続行します。まずはナウタクの北のマラカンダ(サマルカンド)を征服し、その彼方のフェルガナ盆地の入口まで至り、キュロカンド/キュロポリス(キュロスの街)と呼ばれていた都市を「アレクサンドレイア・エスカテ(最果ての)」と改名します。現タジキスタンのホジェンドです。ついにシル川(ヤクサルテス川)まで到達した彼らの前に立ちはだかったのは、スキタイやソグドと源を同じくする騎馬遊牧民サカ(サカイ)でした。

 アレクサンドロスは彼らとの戦いで勝利を収めますが、現地の水にあたって病気になり(または負傷し)、またスピタメネスが裏切ったと聞いて撤退し、敵に囲まれたサマルカンドへ戻ります。スピタメネスはサマルカンド包囲を解いてソグディアナやバクトリアを転戦し、サカやマッサゲタイをも味方に引き入れ、対マケドニア軍のゲリラ戦を展開します。アレクサンドロスは配下の将軍たちを派遣して迎撃し、前328年にスピタメネスが仲間に暗殺され、反乱はようやく鎮圧されました。この後、アレクサンドロスはバクトリアの豪族オクシュアルテスの娘ロクサネを娶っています。

印度侵攻

 ソグディアナとバクトリアを平定すると、アレクサンドロスはカーブルへ戻り、前327年にはカイバル峠を越えてガンダーラ地方へ侵攻します。ここもペルシア帝国の版図のうちでした。インダス川を渡り、ガンダーラの首府タクシラ(タクシャシーラ)に入ると、前326年にはヒュダスペス(ジェルム)川を東に渡り、ポロスという王と戦いました。

 ポロスはヴェーダにいうパウラヴァ族の王かと思われ、パンジャーブ東部の支配者として大軍を擁し、ガンダーラの王と対立していました。激戦の末にアレクサンドロスはポロスを破り降伏させますが、この時に愛馬ブケファロスを失っています。悲しんだ彼はこの地にアレクサンドレイア・ブケファリアという都市を築いて記念しました。

 このウマの名は「牡牛(ブース)の頭(ケファロス)」を意味し、大柄な黒毛のウマでしたが、額に牛の角のような星(白毛)がありました。伝説によればギリシア北部のテッサリア地方産の暴れ馬で、フィリッポス2世に献上されましたが人を食い殺すほど気性が荒く、少年アレクサンドロスだけが乗りこなしたといいます。

 アレクサンドロスはパンジャーブ地方を制圧し、ガンジス川流域までも征服しようとしますが、流石に兵士らは疲れ果て、これ以上の進軍を拒否しました。やむなくアレクサンドロスはインド征服を諦め、インダス川を下って流域の諸部族を服属させ、パッタラ(現パキスタンのシンド州タッター)まで到達します。ここで軍を3つにわけ、クラテロスにはアラコシア、ドランギアナへ向かわせ、ネアルコスには水軍を率いてインド洋を西へ向かわせ、自らは海沿いのゲドロシア地方(バルーチスターン)を西へ進みます。カルマニア(ケルマーン州)でクラテロスと合流し、前324年にペルセポリスを経て6年ぶりにスサに帰還しました。遠征開始からは10年目です。この間、マケドニアやギリシアなど西方領土は家臣がしっかり守っていました。

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 彼はスサでマケドニア人・ギリシア人とペルシア人女性の合同結婚式を盛大に執り行います。またペルシア帝国の後継者であると宣言し、帝国の運営のためにペルシア人らを積極的に登用、自らもペルシア風の服装や儀礼を採用しました。バビロンに帰るとこの傾向はさらに強くなり、マケドニア人は反発するようになっていきます。しかし前323年、アレクサンドロスは突然病に倒れ、32歳の若さで崩御しました。

鉄床戦術

 嵐か彗星のように現れて去っていったアレクサンドロス大王でしたが、彼の快進撃の決め手が騎兵の運用にあったことは明らかです(それを支える歩兵や兵站、幸運ももちろんですが)。スキタイやペルシアをも破った騎兵の主力は、ヘタイロイ([王の]友)と呼ばれる近衛の重装騎兵部隊です。

 彼らはその名の通り王の側近である貴族層で、甲冑をまとい長槍と剣で武装し、敵軍の弱点や隙間めがけて騎兵突撃を行い撹乱・蹂躙する役目を持ちました。鞍はアッシリア時代にはありましたが、鐙(あぶみ)はまだ発明されておらず、騎兵は太腿で馬の腹をしっかり抑え、手綱で操縦するしかありません。それゆえ後世ほどの威力はありませんが、当時の歩兵部隊を突き崩すには十分でした。テッサリア、マケドニア、トラキアなどでは古くから馬が飼われ、スキタイの影響で騎兵戦術も盛んだったのです。

 またフィリッポスやアレクサンドロスは、軍勢を左右両翼に分けて片方に敵を食い止めさせ、もう片方に敵の脇腹や背後を突かせる「鎚と鉄床戦術(英:ハンマー&アンヴィル)」を得意としました。斜線陣の応用とも思われますが、重装歩兵だけでなく重装騎兵を用いることで戦場に機動力・速度が導入され、連戦連勝となったのです。この戦術はアレクサンドロスの後継者となる将軍たち、またハンニバルやローマ軍にも受け継がれました。

◆Hammer to◆

◆Fall◆

 かくてペルシア帝国は滅亡し、スキティアは大打撃を受け、アレクサンドロス大王の帝国も彼の死後は四分五裂となります。この混沌の中、新たな騎馬遊牧民の波が中央アジアから押し寄せてきます。やがて彼らは黒海北岸にサルマティアを、イラン高原にアルサケス朝パルティアを、アフガニスタンにサカ国を、ソグディアナに大月氏国を建国するのです。

【続く】

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