【つの版】ウマと人類史EX36:富士川戦
ドーモ、三宅つのです。前回の続きです。
治承4年(1180年)8月、源頼朝は伊豆で挙兵し、1ヶ月余の間に坂東の武士団を糾合して鎌倉に入り、反平家政権を樹立します。同時期には全国各地で反平家の勢力が武装蜂起し、天下は未曾有の大乱となりました。
◆義◆
◆経◆
福原遷都
以仁王の乱が鎮圧された直後の治承4年5月30日、清盛は「興福寺が都を脅かしており危険なので、来月3日に福原に行幸あるべし」と宣言し、予定を早めた翌月2日に安徳天皇、高倉上皇、後白河法皇を行幸させ、行宮(仮の御所)に安座させました。延暦13年(794年)に桓武天皇が平安京を築いて以来、380年余ぶりの遷都です。
清盛の本拠地である福原への突然の遷都は天下を驚かせ、高倉上皇や平家一門も反対しますが、清盛は強硬に実行し、福原とその近辺に急ピッチで新たな首都を建設させました。この行動は清盛が「朝廷を牛耳る逆賊」であるとの印象を強くし、反平家の動きを加速させます。
甲斐源氏
伊豆で挙兵した頼朝は8月23日に石橋山の戦いで平家側の大庭景親らに敗れ、海路で安房国へ逃れました。頼朝の舅の北条時政は嫡男の宗時を失い、次男の義時らを連れて甲斐国へ逃げ込みます。
当時の甲斐国には、頼朝と同じ河内源氏である新羅三郎義光の曾孫・武田信義ら甲斐源氏が割拠していました。のちの武田信玄らの直系の先祖です。甲斐国には信濃・上野・武蔵とともに勅旨牧(皇室直属の牧場)が置かれ、皇室・摂関家・院近臣の荘園が多数存在し、反平家勢力が強い地域でした。例の「以仁王の令旨」は彼らのもとにも届いており、頼朝側へ馳せ参じた武士の中には甲斐源氏とつながりのある者もいたようです。しかし平家側についた者もおり、頼朝挙兵の時にはまだ旗幟鮮明ではありませんでした。
石橋山の合戦で頼朝側が敗れると、大庭景親の弟・俣野景久が駿河目代の橘遠茂らとともに甲斐国へ攻め込み、8月25日に甲斐源氏の安田義定らがこれを迎撃して波志田山(山梨県南都留郡富士河口湖町の足和田山か)で戦となります。石橋山から足和田山までは80km近くあり、時政らが相当に急いでもこの合戦に間に合ったとは思えません。
安田義定らは富士山北麓で夜営中の敵軍を奇襲して勝利をおさめ、情勢を伺っていた武田信義も一族とともに挙兵します。9月10日には信濃国へ侵攻し、諏訪大社に入って平家側の豪族を打ち破りました。頼朝は時政を介して信義と同盟を結び、甲斐・信濃・坂東は反平家に大きく傾きます。
木曽義仲
同月7日には、信濃北部の水内郡市原(現長野市若里、川中島付近)で合戦が起きています。これは平家側の豪族・笠原頼直が信濃源氏の村山義直らと衝突したもので、源義仲も木曽から兵を率いて援軍に駆けつけました。
義仲は河内源氏嫡流・義賢(義朝の弟)の子で幼名を駒王丸といい、久寿2年(1155年)の大蔵合戦で父が義朝の嫡男・義平に討たれたのち、中原兼遠によって信濃国木曽谷へ匿われていました。異母兄の仲家は源頼政の養子として京都にいましたが、以仁王の乱に加わって宇治で討ち死にし、義仲も平家から追われる身となっていたのです。市原合戦に駆けつけた27歳の義仲は笠原勢を越後へ撃退し、父の所領がある上野国多胡郡(現群馬県高崎市・藤岡市)へ移動します。しかし新田義重や足利俊綱、佐竹隆義ら坂東北部の武家は平家側についており、義仲や頼朝とは対立していました。
富士川戦
この頃には鎮西(九州)で菊池隆直らによる反乱(鎮西反乱)が勃発し、紀伊国の熊野三山でも反平家の不穏な動きが起きていました(熊野動乱)。9月1日に東国反乱の報を受けた平清盛は、5日に嫡孫(重盛の子)の維盛を東国討伐の総大将に任命しますが、各地の反乱対応に追われて兵や兵糧が集まらず、9月22日になってようやく福原を出発します。29日に京都を出た追討軍は道々で兵や兵糧をかき集めますが、士気も練度も低いままでした。
一方、武田信義ら甲斐源氏は軍議を開き、駿河への侵攻を計画します。これを聞きつけた駿河目代の橘遠茂は駿河・遠江から兵を集め、富士山麓(富士野)を通って南から甲斐国へ侵攻せんとします。富士北麓の若彦路から駿河へ侵攻した甲斐源氏軍は10月14日に鉢田山で敵軍と遭遇し、敵将・橘遠茂を捕虜とする大勝利をおさめました。
平維盛らは10月13日に駿河に入っていました。武田信義は維盛へ「浮島ヶ原(駿河湾沿いの低湿地)でお会いしよう」と挑戦状を送り付けつつ南下し、富士川を挟んで維盛らと対陣します。頼朝は鎌倉を出陣して波多野義常・大庭景親・伊東祐親ら敵対者を討伐しつつ西へ向かい、富士川から15kmも東の黄瀬川沿い(現静岡県駿東郡清水町)に布陣します。信義は頼朝の部下ではなく同盟者ですから、この合戦は信義ら甲斐源氏が主体となって平家軍と戦い、頼朝は後詰めとして信義らを支援する形となりました。
平家軍は4000騎ほどでしたが、道中での兵糧不足が祟って疲弊しており、逃亡者が相次いで半減しています。対する信義軍は本拠地の近くにあって遠征軍を待ち構え、号して4万、10倍に誇張したとしても4000で、背後の頼朝勢を加えれば優勢です。平家側に走ろうとした勢力も信義と頼朝に妨害されて捕まっており、いかに官軍の威光があっても平家軍の劣勢は覆せません。
10月20日夜、平家軍は戦わずして撤退し(水鳥の羽音に驚いたとも)、維盛らは京都へ逃げ帰ります。これにより駿河は武田信義、遠江は安田義定の手に落ち、平家側は三河・濃尾まで退きました。また戦わずして負けたことで平家の面目は失墜し、天下の反平家の勢いはますます盛んとなります。
翌21日、奥州藤原氏のもとで育てられていた源義経が家来の佐藤継信・忠信兄弟ら数十騎を率いて黄瀬川の陣を訪れ、兄の頼朝と対面を果たします。奥州藤原氏の当主・秀衡は源平合戦において中立を保っていますが、義経らを頼朝のもとへ派遣したことで、間接的に反平家側についたとも言えます。かつ義経は類稀な軍事的才能を発揮し、遠江にいた兄の範頼とともに、頼朝軍の遠征指揮官として活躍することになります。
所領分配
頼朝はこのまま平家軍を追撃して上洛し、後白河院らをお助けしようと望みましたが、上総広常・千葉常胤・三浦義澄らは「まず常陸の佐竹氏を討伐して東国を固めるべき」と主張します。佐竹氏は武田氏と同じく新羅三郎義光の末裔で、常陸国北部7郡を支配し、常陸平氏嫡流の大掾氏と婚姻関係を結んでいました。伊勢平氏は常陸平氏の分流ですから平家とも縁が深く、北の奥州藤原氏とも結んでおり、坂東北部にあって油断ならぬ勢力でした。
坂東武者たちに背かれれば頼朝はただの流人ですし、坂東と畿内を結ぶ東海道・東山道は甲斐源氏が掌握していますから、頼朝はやむなくこれに従います。そして鎌倉に戻る途中で相模国府に入ると、自分に従う武士たち(御家人)の本領を安堵し、敵から没収した所領を分配しました。武家は「一所懸命」、自らの所領の維持拡大が一番大事ですから、頼朝側について平家側と戦えば具体的なメリットがあることをアピールしたのです。頼朝は朝廷からすれば無位無官の流人であり、法的根拠はありませんが、河内源氏嫡流の権威は坂東において大きく、多くの武士がこれに従いました。従わなければ以仁王の令旨を持ち出され、「平家側の逆賊」として討伐されるわけです。
同年11月4日、頼朝は軍勢を率いて常陸国府(現茨城県石岡市)に入り、佐竹氏を討伐するための軍議を行います。当主の佐竹隆義は平家に従って京都にいたため、次男の秀義らは難攻不落の金砂山城(現常陸太田市)に籠もって抵抗しますが、嫡男の義政は縁者であった上総広常を介して帰服を申し出ます。しかし広常は義政を誘き出して殺害し、秀義の叔父・義季(昌成とも)を内通させて金砂山城を陥落させます。秀義は奥州へ逃亡し、頼朝は彼の所領を没収して御家人へ分配しました。佐竹氏は所領を巡って上総広常と対立していたため、この戦は広常がそそのかしたものと思われます。
同年11月には甲斐源氏の勝利に呼応して、尾張・美濃・近江で源氏が蜂起します。特に近江源氏の山本義経・柏木義兼らは琵琶湖を制圧して北陸道からの年貢を差し押さえ、園城寺と手を組んで京都を脅かしました。清盛は福原から京都へ都を戻し、高倉上皇に謀反人追討の院宣を出させて必死で鎮圧しますが、12月には伊予国の河野氏、大和国の興福寺らが武装蜂起します。翌年には高倉上皇と清盛が相次いで世を去り、天下の動乱は混迷を深めていくことになります。
◆剣◆
◆心◆
【続く】
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