【つの版】度量衡比較・貨幣96
ドーモ、三宅つのです。度量衡比較の続きです。
1497年、ジョン・カボットが英国から大西洋を横断して北アメリカ大陸に到達しましたが、厳しい気候と先住民の抵抗により、ヨーロッパからの植民は遅々として進みませんでした。スペインが征服したカリブ海やメキシコから北へも探検隊が通過するばかりで、恒久的植民地は建設されていません。状況が変わり始めたのは16世紀後半からです。
◆海◆
◆狸◆
海狸外套
1559年、現フロリダ州北西部のペンサコーラにスペイン人が開拓地を築きましたが、1561年には放棄されました。1562年にはスペインと対立するフランスのユグノー(プロテスタント)が探索隊をフロリダへ派遣し、1564年には半島北部にカロリーヌ砦(現ジャクソンビル)を建設します。スペインは1565年にその開拓地を破壊してユグノーを殺戮し、その南にサン・アウグスティン開拓地(現セントオーガスティン)を建設しました。ここは全米50州の中で最も古いヨーロッパ人による入植地です。
同年、メキシコとフィリピンを結ぶ太平洋横断航路が開拓され、コロンブスの描いた夢は彼の死後半世紀余りのちに実現されます。この間、フロリダ以北の北アメリカにはヨーロッパ人はほとんど定住しておらず、ニューファンドランド島付近にのみ季節性の漁民の集落が形成されつつあった程度でした。やがてこの漁民たちは先住民と物資の交易を行うようになります。
先住民たちにとってもこの地域は良い漁場だったので、海の彼方から来た新参者たちはあまり歓迎されませんでしたが、ヨーロッパ人は彼らの機嫌をとるためと実益も兼ねて、ナイフなどの鉄器と先住民の着古した毛皮を交換するようになります。それはこの地域にいたビーバーの毛皮でした。
ビーバーの毛皮は、外側は撥水性の高い剛毛、内側は防寒性の高い柔毛からなり、先住民は古くからその毛皮をなめして縫い合わせ、毛布や衣服に用いていました。漁民たちは夏に来てタラの干物を作り、冬に大西洋を横断したため、この毛皮の毛布「キャストル・グラ/ビーバー・コート」は必需品となりました。英国やフランスではこのビーバーの毛で作ったフェルトの帽子が1580年代までに流行し、フランスでは交易会社が設立され、毛皮を持ち帰るための船が手配されるようになります。ここで視線を東に移し、欧州における毛皮交易の歴史について簡略に触れてみましょう。
毛皮交易
毛皮交易の歴史は人類の歴史と同じぐらい古く、それだけで一大テーマとなり得るほどです。アフリカで進化した人類は肉体を覆う体毛に乏しく、動物を狩猟して毛皮を身に纏うことで、寒冷地にも進出が可能になりました。やがて毛皮は交易網に乗って遠隔地まで売買されますが、さほど毛皮を必要としない温暖な地域では「遠隔地からもたらされたステータスシンボル」としてもてはやされ、高値で取引されるようになります。日本でも渤海国や蝦夷からもたらされる毛皮が貴族たちの間で流行しました。ユーラシア大陸にもヨーロッパビーバーはいますし、クロテン(セーヴル)や狐などの毛皮は暖かくつややかで、熊や虎の毛皮と並び人目を驚かす高級品でした。
ヨーロッパに毛皮を供給していたのは、東方のロシアです。中央ユーラシアのブルガール人やハザール人、北欧のヴァイキング(ルーシ)たちは河川を介して森林地帯に交易網を伸ばし、先住民に毛皮を貢納させ、イスラム世界や東ローマ、ヨーロッパへ高値で売りさばきました。毛皮は銀と並ぶ通貨として流通し、キエフ・ルーシの法典でも取引価格が定められています。
復習してみましょう。ルーシは北欧と同じく銀の秤量貨幣を用い、グリヴナ(首飾り)を基軸通貨としました。重さは時代と地域により様々ですが、11世紀のキエフ・グリヴナは165g、ノヴゴロド・グリヴナは204g(半フント)あり、12世紀には後者がルーシ全域で流通していました。ノヴゴロドはキエフより古くからルーシが拠点を築いた地で、バルト海を通じてドイツやフランス、英国へも毛皮を輸出しており、キエフが衰えて東ローマとの交易が不調になるとノヴゴロドが繁栄するようになったのです。銀1gを仮に現代日本円で3000円と換算すると、1グリヴナは60万円にあたります。
ルーシ法典での罰金体系
・同じ共同体内での、軽い盗難による侮辱罪:3グリヴナ(180万円)
・自由人を殴打した奴隷(ホロープ)が主人の家に逃げ込み、
主人が渡そうとしないとき:12グリヴナ(720万円)を支払ってその奴隷を買うことができる
・頭髪や髭を攻撃した場合の罰金:12グリヴナ
・平民(リュージ)や徴税人の殺害賠償金:40グリヴナ(2400万円)
・腕に切りつけて切断するか、それが使いものにならなくなった場合の罰金:40グリヴナ
・中小地主(オグニシャーニン)や徴税人の殺害賠償金:80グリヴナ(4800万円)
熊や狼のような大型動物の毛皮をノガタといい、ルーシの法典では20枚で1グリヴナでした。テンなどの毛皮はクナといい、古くは1/4グリヴナ、11世紀には1/25グリヴナ、12世紀には1/50グリヴナと値下がりしています。クナの半分をレザナといい、リスの毛皮はベクシャと呼ばれ、古くは1/4クナ、12世紀後半には1/3レザナほどで取引されました。つまり、こうです。
1グリヴナ=20ノガタ=25クナ=50レザナ=100ベクシャ
グリヴナ:1/2フント≒銀204g≒60万円として
ノガタ :1/20グリヴナ≒銀10g≒3万円
クナ :1/25グリヴナ≒銀8g≒2.4万円 のち値崩れ
レザナ :1/2クナ≒銀4g≒1.2万円
ベクシャ:1/4クナ≒銀2g≒6000円 のち1/3レザナ
ノヴゴロドからリスの毛皮(ベクシャ)が輸出される時は1樽=約1万枚を1単位としました。1枚6000円=1/100グリヴナとすると1樽600グリヴナ=6000万円です。運搬の手間はかかりますが、先住民に毛皮を貢納させればこれほどの利益が見込めたのですから大したものです。先住民も奪われるばかりではなく、商人と交易してちゃんと利益を得ています。
北俄貢納
13世紀半ば、キエフがモンゴル(タタール)の侵攻で破壊されると、ルーシ諸国はモンゴル帝国(の分国であるジョチ・ウルス)に服属し、貢納と交易を行うようになります。モンゴル人も毛皮を好んだため、ノヴゴロドはせっせと毛皮を貢納して世界各地の産物を売買し、ルーシ諸国の中で最も繁栄しました。バルト海の都市同盟「ハンザ同盟」にも加入し、北東は北海沿岸からウラル山脈北端まで勢力を伸ばしています。
ルーシ諸侯たちはモンゴルに忠誠を誓って後ろ盾とし、その庇護下で抗争を繰り広げましたが、14世紀にはモスクワ公国がその代表となり、ルーシ諸侯からせっせとカネや毛皮を巻き上げてモンゴルに貢納するようになりました。この頃、モスクワではデンガ(denga)という銀貨が出現しますが、これはテュルク諸語で「刻印」「秤」を意味するtengaが語源で、初期の形状からも明らかにモンゴルで流通していた銀貨の模倣品です(カザフスタンは1993年から通貨名をテンゲ/tengeとしています)。
時代が下るにつれて縮小しますが、当初は1グリヴナの銀から200枚のデンガが製造され、1枚は約1g(3000円)でした。また1グリヴナは48のゾロトニク(金)にわけられましたが、これは4g(1.2万円)ほどです。このように秤量貨幣を切り分けることをルーブリ(切り分け、勘定)といい、いまロシアとベラルーシの通貨単位をルーブリというのはこれに由来しますが、ウクライナではグリヴナに由来するフリヴニャを貨幣単位として用いています。
1478年、ノヴゴロドはモスクワ大公イヴァン3世に征服されます。ノヴゴロドの富と領土と交易圏を奪い取ったモスクワ大公国は一時的ながら「タタールのくびき」を跳ね除けるほどの大国となり(その後もタタールに脅かされて貢納は続けていますが)、現代のロシアへ繋がっていきます。
1534年、モスクワ大公イヴァン4世の母で摂政のエレナは中央集権化のため通貨改革を行い、ルーシ諸国が流通させていた種々雑多な貨幣を禁止し、モスクワとノヴゴロドのデンガを標準貨幣として定めました。この頃ノヴゴロドのデンガは1グリヴナの銀から260枚、モスクワのデンガは倍の520枚が製造されていましたが、エレナはそれぞれ300枚と600枚とします。すなわち銀0.68gと0.34gで、銀1g3000円で換算すれば2000円と1000円ほどです。
ノヴゴロドのデンガの表面には「槍(コピヨー)を持つ騎士」の図柄が刻まれており、「コペイカ」の名で呼ばれました。モスクワのデンガには「太刀を持つ騎士」の図柄が刻まれていましたが、こちらはコペイカと区別して単に「デンガ」と呼ばれました。グリヴナは会計単位となり、コペイカ100枚(20万円)が1ルーブリと定められます。すなわち3ルーブリ=1グリヴナ(60万円)です(価格革命で貨幣価値は1/3になりますが)。また補助通貨として半デンガのポルシュカも鋳造されています。
グリヴナ :銀204g=600デンガ=300コペイカ=3ルーブリ=60万円
ルーブリ :銀68g=200デンガ=100コペイカ=20万円
コペイカ :銀0.68g=2デンガ=2000円
デンガ :銀0.34g=1000円
ポルシュカ:銀0.17g=500円
モスクワ大公国の財政を支えたのは、広大な森林地帯から貢納される毛皮でした。モスクワ・ロシアはこれを求めてウラル山脈の彼方のシベリアまで進出し、海陸を通じて欧州諸国と利害関係を結ぶことになります。
◆Mos◆
◆kau◆
【続く】
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