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【つの版】ウマと人類史:近世編36・印度遠征

 ドーモ、三宅つのです。前回の続きです。

 1736年3月、サファヴィー朝イランの摂政ナーディルは国王アッバース3世を退位させて自ら王位につき、アフシャール朝を開きました。ロシアやオスマン帝国と条約を結び、有利な条件で国境を画定したのち、彼は東方へ目を転じます。狙うはカンダハール、そしてムガル帝国です。

 なお国号イラン(エーラーン・シャフル「アーリヤ人の地」)はサーサーン朝以来の自称ですが、ペルシア(パールサ)はイラン高原南西部のファールス地方を発祥の地とするアケメネス朝が称したもので、ギリシア・ローマおよび西方世界からはイスラム化後も「ペルシア」と呼ばれ続けました(あるいは「ペルシアとメディア」)。アラビア語ではビラード・ファーリス(ペルシア人の国)、またはビラード・アジャム(言葉が通じない/非アラブの国)といいましたが、オスマン帝国では君主の自称「イランの諸王の王」を尊重して「イランのスルタン」などと呼んでいます(蔑視する場合はアジャムを用いました)。ここでは一応「イラン」で統一します。

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◆Baji◆

◆Rao◆

烏弋侵攻

 西暦1737年、ナーディル・シャーはホータキー朝/パシュトゥーン人ギルザイ部族連合の本拠地カンダハールに侵攻します。時の君主フサインはミール・ワイスの息子で、弟マフムードが1725年にアシュラフに殺されたのち、東方で王位を称していました。そのためアシュラフとは敵対していたもののサファヴィー朝やナーディルとも関係良好というわけでもなく、東のムガル帝国も内戦で混乱していたため政権は不安定でした。

 4月、ナーディルはカンダハールを包囲し、周辺に複数の要塞を築かせます。また別働隊にバンダレ・アッバースから海路でバローチスターン南岸を進ませ、現パキスタン南部に割拠していたカラート王国カルホラ王国を服属させています。南側からもカンダハールを脅かしたわけです。一年近くに及んだ包囲の末、カンダハールは1738年3月に陥落しました。

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 この時、パシュトゥーン人のもう一つの有力部族連合アブダーリーの首長であったムハンマドの子アフマドが弟ズルフィカールとともに釈放されています。彼らは1730年にヘラートとマシュハドを巡ってナーディルと争ったことがあり(当時アフマドは9歳ほどですから有力者に担ぎ出されたのでしょうが)、敗れたのちカンダハールに亡命し、フサインによって幽閉されていたのです。17歳の少年アフマドはナーディルに気に入られて従者(ヤサーワル)となり、アブダーリー部族連合の騎兵4000人を率いる隊長に抜擢されています。ズルフィカールはマーザンダラーンの知事に任命されました。これよりギルザイに代わってアブダーリーが台頭します。

 さらにナーディルは「ムガル帝国がフサインを支援した」として、1738年初夏に国境を越えて侵攻し、要衝カーブルを征服しました。この頃ムガル帝国はどうなっていたのでしょう。

印度遠征

 1605年、アクバル大帝が半世紀の治世ののち崩御すると、息子ジャハーンギール(-1627年)、孫シャー・ジャハーン(-1657年)、曾孫アウラングゼーブ(-1707年)が帝位を引き継ぎ、ムガル帝国は最盛期を迎えました。その版図は、東はベンガル、南はデカン高原南部、西はバローチスターン、北はカーブルに及び、インド亜大陸をほぼ統一していました。

 しかし1681年から1707年まで四半世紀に及んだ南方への征服戦争はムガル帝国を揺るがし、各地で反乱が頻発し始めます。アウラングゼーブが崩御するとデカン高原のヒンドゥー教王国マラーターは周辺諸侯と同盟を結び、ムガル帝国に対する大規模な反撃を開始しました。

 ムガル帝国はアウラングゼーブののち短命の皇帝が続き、帝位と権力を巡って有力者が争う有様で、1719年に即位したムハンマド・シャーは比較的長く在位したものの、各地で自立した有力者に盟主として担がれる名目的な皇帝に過ぎなくなります。ムガル帝国は事実上崩壊したのです。

 マラーター同盟の盟主バージー・ラーオは各地に割拠した群雄を平定し、1737年3月には帝都デリー近郊でムガル帝国軍を撃破します。12月には南のボーパールで帝国側諸侯の大軍を打ち破り、翌年にはデカン高原北端のマールワー地方を条約により割譲させました。このようなていたらくですから、ナーディルがインド侵攻を目論んだのも無理からぬことです。

 1739年初頭、ナーディルはカーブルからパンジャーブ地方へ侵攻し、主要都市ラホールを占領、デリーへ進軍します。ムガル帝国の諸侯や貴族は派閥争いで出足が遅れ、2月になってようやく皇帝を担いだ防衛軍が出陣し、デリーの北110kmのカルナール(古戦場パーニーパットの北)で対峙します。ムガル軍は歩兵・騎兵20万、非戦闘員10万、象軍2千、大砲3千門という大軍で、イラン軍は5万5000ほどでしたが、騎兵と大砲を巧みに用いて敵軍を圧倒し、圧勝します。ムガル軍は諸将の大半が戦死し、死者は2万から3万に及び、多数の兵士が捕虜になったといいます。

 2日後、ムガル皇帝ムハンマド・シャーはナーディルの陣営に赴いて降伏し、3月にナーディルはデリーに入城します。しかしデリー市民が反発してイラン軍を攻撃したため、ナーディルは将兵に殺戮と掠奪、破壊を命じます。これにより住民のうち3万人が殺され、シャー・ジャハーンが作らせた「孔雀の玉座」やクーへ・ヌールダルヤーイェ・ヌールなどの宝石、金銀財宝のことごとくが奪われました。

 生存した貴族や市民にも貢納や身代金が課せられ、ナーディルは7億ルピーにのぼる莫大な戦利品を獲得します。これによりイラン軍の兵士は未払いの給料を全額支払われたうえ、半年分の給料に相当するボーナスを授かり、イラン本国では3年間もの間税金が免除されたとすらいいます。ナーディルは2ヶ月近くデリーに滞在したのち、インダス川以西を割譲させる条約を結ばせ、5月に撤退を開始しました。ムハンマド・シャーは1748年まで30年近く帝位を保ったものの、この敗戦で帝国の権威は著しく失墜しました。

覇王暗殺

 1740年、ナーディル・シャーはカーブルから中央アジアへ侵攻し、ブハラ・ハン国を服属させます。ホラズムのヒヴァ・ハン国は使者を斬って抵抗しますがイラン軍の侵攻を受けて破れ、結局ナーディルに服属します。さらに1741年にはウズベク人を撃破したのち、イランへ凱旋しました。その戦功はいにしえのアレクサンドロス大王にも比せられます。欧州では「ペルシアのナポレオン」とか呼ばれますが、ナポレオンはナーディルの業績を学んでいたそうですから、彼を「フランスのナーディル」と呼ぶべきでしょうか。

 ナーディルは莫大な戦利品をもとでに海軍を整備し、1742年にはペルシア湾を渡ってバーレーンを、翌年にはオマーンを占領します。また1743年からはオスマン帝国との戦争を再開し、イラクとカフカースを巡って争います。しかし目立った戦果はなく、ナジャフを割譲させて1745年に和睦しました。

 この頃、ナーディルに対する反乱が各地で勃発し、猜疑心に駆られたナーディルはマシュハドで反乱に関わった者100人あまりを処刑しました。しかし反乱は収まらず、1747年にホラーサーンへ反乱鎮圧のために遠征を行いますが、9月に暗殺されます。ナーディルの義理の甥(妻の兄弟の息子)にあたるアーディルは、暗殺事件からまもなくナーディルの直系親族を殺戮して王位を簒奪しますが、翌年弟イブラヒムに廃位されています。

 ナーディルのカリスマと軍事力によって保たれていた大帝国は、彼の死によって崩壊し、イランは再び群雄割拠の時代を迎えます。アフマド・アブダーリーは東方で王位を称しドゥッラーニー朝を建て、クルド系のザンド朝はサファヴィー朝の王族を奉じてイラン高原の大部分を支配し、クズルバシュの一派ガージャール部族連合はカスピ海南岸に割拠します。ナーディルの孫のシャー・ルフはホラーサーンで王位に擁立されますが実権はなく、有力者らの傀儡として利用されるにとどまりました。

 これらの興亡に関してはまた触れるとして、中央アジアに視線を移すと、1755年にジュンガルが清朝に征服され滅亡しています。中央ユーラシア最後の遊牧帝国とも呼ばれるジュンガルは、どのように滅んだのでしょうか。

◆Bole So Nihal◆

◆Sat Sri Akaal◆

【続く】

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三宅つの
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