【つの版】度量衡比較・貨幣166
ドーモ、三宅つのです。度量衡比較の続きです。
1775年に勃発したアメリカ独立戦争は、フランス・スペイン・オランダなども巻き込んで国際戦争と化し、英国は孤立を深めます。1781年10月、ヨークタウンの戦いで英国軍7000が降伏すると、英国世論は終戦に傾きます。
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巴里条約
この頃、フランス・スペイン連合は英国を相手にして比較的優位に立ち回っていました。ジブラルタルは結局陥落させられなかったものの、1781年8月には地中海のメノルカ島に侵攻し、翌年2月に奪還しています。カリブ海方面でも1782年にはバハマ諸島を無血占領し、アメリカ本土ではミシシッピ川流域の英国の砦を襲撃、1781年には西フロリダを奪還します。一方でフランスはカリブ海諸島などで英国と戦いますが、アメリカを直接支援したこともあり大きな領土は獲得できませんでした。
1782年4月、英国とアメリカの間で休戦が行われます。翌1783年1月には英国とフランス・スペイン連合の間で予備条約が結ばれ、これを受けて2月にジブラルタルを包囲していた連合軍が撤退します。9月3日、英国はアメリカとの講和条約をパリで締結し、アメリカ合衆国の独立を承認しました。アメリカの国境は、西は英領とスペイン領の境であったミシシッピ川まで、北は五大湖まで、南は東西フロリダとの境までと定められます。ただし、この国境内に存在するアメリカ先住民にはなんの相談もなかったため、アメリカはまずこれらの先住民と土地を巡って争うことになります。
続いて同年11月25日、フランス・スペインと英国の間で講和条約が締結されます。これによりスペインはジブラルタルへの請求権を放棄し、西フロリダおよびメノルカ島を奪還し、バハマ諸島と交換で東フロリダも奪還しました。フランスはカリブ海のトバゴ島とセントルシア、西アフリカのセネガル川流域、七年戦争で英国の軍事基地になっていたダンケルクを奪還し、ニューファンドランド島(テラ・ノヴァ)における漁業権を拡大しますが、スペインが獲たものよりも遥かに小さく、莫大な出費の割には合いません。また翌年5月には英国とオランダの間で講和条約が締結され、オランダは敗北を認めて南インドの港町ナーガパッティナムを割譲しています。
財政問題
財政的なコストから見ると、英国はこの戦争に8000万ポンド(1ポンド≒10万円として8兆円)を費やし、七年戦争での負債も残っていたため最終的な国の負債は2.5億ポンド(25兆円)に達し、利息返済だけでも年間950万ポンド(9500億円)になりました。さらに北米の13植民地やメノルカ島、東西フロリダなども失ったのですから相当な打撃です。
対するアメリカ合衆国は、英国の植民地でしたからポンドが法定通貨でしたが、英国が貨幣の流通や発行を厳しく制限したため、スペイン植民地で発行されたドル(ターラー/ダラー、8レアル銀貨)が広く流通していました。これは純銀含有量25gほどの大型銀貨で、1/4ポンド≒2.5万円ほどの価値があります。独立戦争の戦費は連邦で3700万ドル(925万ポンド≒9250億円)、各州の合計で1.14億ドル(2850万ポンド≒2.85兆円)といい、国民やフランスやオランダからの借金、為替手形や紙幣の発行で補われました。
そしてフランスは、この戦争で13億リーヴル(約5600万ポンド≒5.6兆円、1ポンド≒23リーヴルとして1リーヴル≒4348円)を費やし、国の負債はもとの30億リーヴル余と足して43億リーヴル(約1.87億ポンド≒18.7兆円)にも達しました。英国に比べれば少ないですが、国庫を破綻させるには十二分な額です。しかも戦争で獲られた利益は少なく、英国やスペインのように広大な植民地も持っていないのですから、莫大な負債は歳入の大半を削り、増税となって国民にのしかかります。英国に一泡を吹かせたものの、結果的にアメリカ独立戦争への参戦はフランス革命の原因の一つとなったのです。
米国財政
このアメリカ独立戦争においてはハイム・サロモンというユダヤ人が活躍しています。彼は1740年にポーランド中部の街レシュノに生まれましたが、15世紀末にスペインから追放されたセファルディム系ユダヤ人の出自で、幼い頃にポーランドを離れたためイディッシュ語(中東欧のアシュケナジム系ユダヤ人の言葉)は話したり読み書きしたりできませんでした。
成人後は西欧諸国を旅の商人として渡り歩き、金融知識を身に着け多言語を流暢に話せるようになった彼は、1770年に一旦ポーランドに戻ります。しかし2年後に第一次ポーランド分割が起き、サロモンは混乱を避けてポーランドを立ち去り、1774年に英国へ、翌年には新天地を求めてアメリカへ渡りました。彼はニューヨークで海外貿易に携わる商人たちの金融ブローカーとして活躍しますが、英国の貿易統制に反発して革命結社「自由の息子達」に加わったため、1776年9月に英国軍によりスパイとして逮捕されます。
サロモンは恩赦により釈放されるとドイツ人兵と英国軍の間の通訳となりますが、この立場を利用してアメリカ人捕虜の逃亡やドイツ人兵の脱走を助け、スパイ活動を行ってアメリカを支援します。1778年にこれが露見すると英国に再逮捕されて死刑宣告を受けますが、サロモンは家族とともに脱走してフィラデルフィアに逃れ、ペンシルベニア州の商人ロバート・モリスと手を組んで財政面でアメリカ合衆国を支援し始めます。
モリスはサロモンより6歳年上で、フィラデルフィア市長の子トーマス・ウィリングと組んで大規模な国際貿易会社を経営しており、北米有数の富豪でした。彼らは自由貿易を阻害する英国のやり方に反発し、ジョン・アダムズらとともにフランスから軍需物資を密輸したり、自社の商船を私掠船に仕立てて英国海軍を悩ませたりと活躍しています。当然情報収集のためのスパイ網も築き上げており、サロモンはその協力者になったのです。
当時のアメリカ合衆国の財政は、英国との戦争と禁輸措置/海上封鎖により破綻しており、1781年時点で2500万ドルもの債務超過に陥っていました。モリスはペンシルベニア州選出の大陸会議の議員として財政再建に抜擢され、財政と海事に関わる行政府の最高責任者の役職を兼任します。彼は貿易のために港を開かせ、商品価値と通貨を定め、フランスからの借金により国立の「北米銀行」を設立して戦費を賄い、また歳出削減を断行します。これによりアメリカの財政は大幅に改善し、ナサニエル・グリーンやジョージ・ワシントンの軍の補給物資や資金もモリスが調達しています。彼なくしてアメリカの勝利と独立はあり得なかったでしょう。
一方サロモンはフランス領事の代理人となり、北米におけるフランス軍全体の給与支払いの責任者となりました。またフランスやオランダからの援助を売却する仲介を行い、為替手形を発行して各方面に対する資金を援助し、多額の寄付を募り、アメリカの独立のために私財を投じて惜しみませんでした。しかし戦後は負債をひっかぶって借金まみれとなり、1785年にフィラデルフィアで貧窮のうちに44歳で病没しています。ユダヤ人の商人だからって彼がアメリカ独立戦争で儲けたわけではありませんでしたが、彼の献身的な功績により、アメリカではユダヤ人コミュニティが迫害を受けることは欧州ほどにはなかったようです。
ロバート・モリスは、戦後はアメリカ合衆国の憲法制定会議の代議員に選ばれ、ジョージ・ワシントンを議長に指名するなど裏で重要な役回りを演じました。1789年からは上院議員として財務長官アレクサンダー・ハミルトンの後ろ盾となり、経済政策を主導して広大な土地を購入・売却しています。しかし不動産投機バブルがナポレオン戦争で弾けて大打撃を受け、1798年から1801年までフィラデルフィアの債務者刑務所に収監されています。釈放後は健康を害し、1806年に72歳で逝去しました。トーマス・ウィリングは1782年から91年まで北米銀行初代頭取、1791年から1807年まで第一合衆国銀行初代頭取をつとめています。
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アメリカ独立戦争はフランス革命やナポレオン戦争に直結することになりますが、ここらで太平洋を横断し、同時代の日本に戻ってみましょう。アメリカ独立戦争の勃発した1775年は、日本では安永4年にあたり、田沼時代の真っ最中です。宝暦・天明文化が花開く中、多くの天災にも見舞われ、天明2年(1782年)から大飢饉、天明6年(1786年)には大洪水、天明7年(1787年)には全国規模の打ちこわしが発生しました。幕府を転覆させるには至りませんでしたが、これにより田沼派は没落し、松平定信による寛政の改革が始まります。
◆べら◆
◆ぼう◆
【続く】
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