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2025年2月の記事一覧

【つの版】日本刀備忘録46:禁闕之変

 ドーモ、三宅つのです。前回の続きです。  嘉吉2年(1442年)6月、43歳の細川持之は幕府の管領を辞職して出家し、8月に逝去しました。子の勝元は13歳で家督を相続しますが、後任の管領には畠山持国が就任し、幼い将軍を奉じて幕政を主導することになります。 ◆室町◆ ◆無頼◆ 畠山持国 畠山氏は武蔵国男衾郡畠山郷(現・埼玉県深谷市畠山)を本貫地とする武家です。もと桓武平氏系秩父氏の分家でしたが、鎌倉時代初期に畠山重忠が北条氏と対立して滅ぼされたのち、足利義兼の庶長子・義

【つの版】度量衡比較・貨幣171

 ドーモ、三宅つのです。度量衡比較の続きです。  文化14年(1817年)に松平信明が危篤に陥ると、44歳を迎えていた将軍・徳川家斉は幕閣改造を企て、側近の水野忠成を側用人兼務のまま老中格に引き上げ(翌年老中に昇進)、寺社奉行の阿部正精を歴職を飛び越えさせて老中に抜擢しました。長年幕政を取り仕切ってきた「寛政の遺老」たちは遠ざけられ、寛政の改革に対する反動の時代がやってきます。 ◆水◆ ◆星◆ 水野忠成 水野忠成は宝暦12年(1763年)2月の生まれで、この時55歳、

【つの版】日本刀備忘録45:山名持豊

 ドーモ、三宅つのです。前回の続きです。  嘉永元年(1441年)6月、恐怖政治を敷いた将軍・足利義教は赤松満祐らの家来により暗殺され、大名ら数名も死傷しました。満祐らは京都を退去して領国の播磨に戻りましたが、管領・細川持之は義教の子を後継者として擁立し、大名たちに満祐討伐を呼びかけます。 ◆室町◆ ◆無頼◆ 山名持豊 各地の守護大名たちのうち、赤松満祐討伐に乗り気だったのは山名持豊(のち出家して宗峯、宗全)です。山名氏は足利義満の時に一族で11カ国の守護大名となって

【つの版】度量衡比較・貨幣170

 ドーモ、三宅つのです。度量衡比較の続きです。  享和3年(1803年)末、将軍家斉らと対立した老中首座・松平信明は病気を理由に老中を辞職します。後任の老中首座には戸田氏教が就任し、定信・信明の政策を継続していくこととなります。 ◆愛國◆ ◆戦隊◆ 戸田氏教 戸田氏教は宝暦5年(1756年)の生まれで、松平信明より7歳、定信より3歳年長です。初名を松平元起といい、父は田沼意次の上司であった老中首座の松平武元で、系譜を遡れば水戸徳川家に繋がります。のちに元起は美濃大垣藩

【つの版】日本刀備忘録44:嘉吉之乱

 ドーモ、三宅つのです。前回の続きです。  永享10年(1438年)、室町幕府将軍・足利義教は鎌倉公方・足利持氏を討伐し、翌年には自害に追い込みます。ここに4代90年続いた鎌倉公方は断絶することとなりました。 ◆仁◆ ◆義◆ 結城合戦 義教は自らの幼い次男・義制を新たな鎌倉公方に任じようとしますが、持氏派の残党はこれに従わず、永享12年(1440年)に持氏の遺児春王丸・安王丸を奉じて幕府に反旗を翻します。下総の結城氏朝と子の持朝が首謀者となり、結城城に遺児らを匿って挙

【つの版】度量衡比較・貨幣169

 ドーモ、三宅つのです。度量衡比較の続きです。  寛政の改革を行った松平定信は、将軍・徳川家斉とその父・治済の不興を買い、わずか6年で老中首座から失脚します。しかし彼の政策は松平信明ら「寛政の遺老」に受け継がれ、四半世紀近くも継続しました。定信失脚から家斉の薨去までの半世紀ほど(18世紀末から19世紀前半)を、晩年の家斉が大御所となったことから後世には「大御所時代」と呼びます。 ◆東海道中◆ ◆膝栗毛◆ 松平信明 定信の失脚時に家斉は20歳でしたが、父・治済は42歳の