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【つの版】度量衡比較・貨幣171

 ドーモ、三宅つのです。度量衡比較の続きです。

 文化14年(1817年)に松平信明が危篤に陥ると、44歳を迎えていた将軍・徳川家斉は幕閣改造を企て、側近の水野忠成ただあきらを側用人兼務のまま老中格に引き上げ(翌年老中に昇進)、寺社奉行の阿部正精を歴職を飛び越えさせて老中に抜擢しました。長年幕政を取り仕切ってきた「寛政の遺老」たちは遠ざけられ、寛政の改革に対する反動の時代がやってきます。

◆水◆

◆星◆


水野忠成

 水野忠成は宝暦12年(1763年)2月の生まれで、この時55歳、前老中首座の松平信明より1ヶ月年長です。老中首座には文化露寇を招いた4歳年長の土井利厚が就任しますが、忠成は文化15年(1818年)より16年にわたって勝手掛老中(財務大臣)をつとめ、将軍家斉の信任を受けて幕政を主導します。

 水野氏は清和源氏八島氏流を称し、源満仲の同母弟で八島大夫と号した満政の末裔とされます。満政の7世孫の重房が尾張国知多郡阿久比郷小河に住して小河(小河)氏を名乗り、その子の重清が同国春日井郡水野郷(現・愛知県瀬戸市水野)に住まい水野氏を称しました。また重清は右大臣・近衛道経の子を養子としたともいい、その子孫は小河の地頭職に任じられて鎌倉・室町時代を経ます。戦国時代には尾張から三河にかけて勢力を広げ、三河の松平氏と通婚して同盟しており、徳川家康の母・於大の方も水野氏を実家としています。のち織田信長と同盟し、以後は信長・秀吉・家康に仕えて各地の藩主や旗本となりました。

 忠成はもと旗本の岡野氏(北条時行の末裔を称する)の次男でしたが、大身旗本・水野忠隣の養嗣子となって家督を継ぎ、のち駿河沼津藩主・水野忠友の養嗣子となります。忠友は幕府老中として田沼意次の重商主義政策を支えており、意次の4男を養嗣子とするほど親密でしたが、意次が失脚すると彼を廃嫡して忠成を新たな養嗣子としています。しかし意次の側近としての評判は消せず、松平定信により老中を免職となりました。そこで忠成は将軍家斉とその父・治済に接近し、享和2年(1802年)に藩主を継ぐと奏者番・寺社奉行・若年寄・側用人を歴任、ついに老中に抜擢されたのです。

 この頃、幕府の財政状況は危機的状況にありました。江戸・大坂の御金蔵の有高は、明和7年(1770年)には300万4100両余もありましたが、天明の大飢饉など災害が打ち続き、天明8年(1789年)末には81万7200両に減少していました。10年後の寛政10年(1799年)末には緊縮財政により107万9700両まで回復しますが、その後は臨時出費が続き、文化13年(1817年)末には天明8年時よりさらに少ない72万3800両まで減少していたといいます。

 これは幕府による蝦夷地の調査・開発、ロシアなど諸外国に対する防衛軍事費に加え、治済と将軍家斉の豪奢な生活によります。また家斉は何事も父・治済の言いなりで、幕政は幕閣に丸投げしており、自らは大奥に入り浸って53人(男子26人・女子27人)もの子を儲けました。このうち成年まで存命したのは28人でしたが、家斉はこれらの子女を諸大名へ養子や正室として出し、自らの血縁で諸大名を統制しようとしたのです。家斉の子女を迎えた諸大名は将軍の血縁となって家格や官位・石高が上昇しましたが、迎える側も送り出す側も儀礼によって多大な出費を強いられることになりました。

 しかし治済と家斉に媚びて昇進した忠成には、彼らの機嫌を損ねるようなことはできません。蝦夷地への出費や防衛軍事費は諸藩にも不評ゆえ減らすとしても、財政状況を改善しなければ出費もままならなくなります。こういう時に財政補填の打ち出の小槌として有用なのが、例の貨幣改鋳です。元文元年(1736年)に徳川吉宗が元文金銀の通用を開始させてから80年あまりが経過しており、損傷・摩耗した金銀を吹き替えるという名目は立ちます。

文政改鋳

 文政元年(1818年)4月、水野忠成は金1両の半分に相当する金貨「二分判(二分金)」の鋳造を開始させ、同年6月より通用させました。重さは1.75匁(6.56g)で、当時通用していた金1両相当の元文小判の半分ですが、元文小判が金65%余・銀34%余であったのに対して金56%余・銀43%余と金の品位が14%も減少しています。翌文政2年(1819年)に発行された文政小判(1両相当)と一分判(一分金、1/4両相当)も同様に低品位の金貨でした。

 これにより金相場が下落して銀が高騰し、文政元年正月には金1両=銀64-65匁であったのが、文政2年8月には金1両=銀60匁、同年末には銀52.7匁となります。そこで勘定奉行公事方・服部貞勝の具申により銀も改鋳されることとなり、文政3年(1820年)5月に新たな丁銀の鋳造が開始されます。元文丁銀は銀45%・銅55%ほどでしたが、この文政丁銀銀35%・銅65%ほどと銀の品位が10%も下がっています。

 これら文政金銀は、「元文金銀と等価で交換する」と通告されたため、なかなか普及しませんでした。文政金銀には元文金銀と区別するため草書体で「文」の字が打刻されており、人々はこれを「草文」「新文」と呼び、楷書体の「文」が打刻された元文金銀の方を「真文」「古文」と呼んで重んじました。やむなく幕府は元文金銀の通用を文政8年(1825年)で停止すると布告し(実際は2年延期)、新旧貨幣の交換を強制して通用させます。

 これに味をしめた幕府は、文政4年(1821年)11月には浅草橋場で真鍮四文銭を増産し(従来より銅が9%増加したため赤銭と呼ばれました)、文政7年(1824年)には金1/4分=1/16両に相当する金貨「一朱判(一朱金)」を発行します。1両相当の文政小判が重さ3.5匁(13.12g)、金含有量7.35g弱ですから、これを1/16すると重さ0.82gで金0.46gほどですが、この一朱判は重さ0.375匁(1.4g)のうち12%(0.168g)あまりしか金が含まれておらず、ほとんど銀貨という代物です。しかも小さすぎて紛失しやすく不評でした。

 同じ文政7年には、52年前に田沼意次が発行させた計数貨幣「南鐐二朱」の改鋳を行っています。これは重さ2.7匁(10.12g)、銀含有量98%弱という高品位の銀貨ながら、「8枚で金1両に相当する」と表面に明記することで金貨の代わりに通用するというものでした。忠成は銀品位を維持したまま重量を2匁(7.49g)に減らし、「流通の便宜をはかるため小型化した」として、前と同じく「8枚(16匁)で金1両に相当する」と明記させました。

 文政12年(1829年)には、不評であった一朱金に代わり、南鐐二朱の半分に相当する一朱銀を通用させます。表面には「以十六換一両」と明記され、銀の品位は南鐐二朱と同様ですが、重さは1匁ではなくて0.7匁(2.62g)しかなく、16枚で11.2匁にしかなりません。すなわち四文銭や南鐐二朱と同じく名目・計数貨幣であって、含有金属の重さや価値によらず幕府の権力によって強制的に額面を定義され、流通させられる法定通貨なのです。かつては隆盛を誇った日本の金銀産出量もこの時期には低下を続けており、海外との交易を制限して貨幣流通量を増やすには、もはやこうするしかありません。

 こうして文政年間には秤量貨幣の文政金銀、計数貨幣の寛永通宝一文銭・四文銭・南鐐二朱・一朱銀が混在するようになりました。一連の貨幣改鋳により貨幣流通量は46%も増加し、幕府は550万両に及ぶ出目(改鋳利益)を得たものの、貨幣価値の下落により激しい物価上昇(インフレーション)が生じます。しかし長年の緊縮政策で冷え込んでいた経済市場は大量の貨幣の流入で一気に活性化し、田沼時代に匹敵する好景気が到来したのです。

◆銭◆

◆ゲバ◆

【続く】

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