
【つの版】日本刀備忘録46:禁闕之変
ドーモ、三宅つのです。前回の続きです。
嘉吉2年(1442年)6月、43歳の細川持之は幕府の管領を辞職して出家し、8月に逝去しました。子の勝元は13歳で家督を相続しますが、後任の管領には畠山持国が就任し、幼い将軍を奉じて幕政を主導することになります。
◆室町◆
◆無頼◆
畠山持国
畠山氏は武蔵国男衾郡畠山郷(現・埼玉県深谷市畠山)を本貫地とする武家です。もと桓武平氏系秩父氏の分家でしたが、鎌倉時代初期に畠山重忠が北条氏と対立して滅ぼされたのち、足利義兼の庶長子・義純が重忠の未亡人(北条時政の娘)ないし彼女の娘を娶り、所領と名跡を相続しました。このため数ある足利一門の中では足利尾張家(武衛家、斯波氏)に次いで序列が高く、北条氏からも一門の庶流に並ぶ家格として厚遇されました。
足利尊氏が鎌倉幕府を滅ぼし、次いで後醍醐天皇に逆らうと、畠山一族は宗主たる尊氏に属して戦います。当主の高国は伊勢守護、子の国氏は奥州管領に任命されますが、観応の擾乱で足利直義についた吉良貞家と対立し、父子ともども攻め滅ぼされます。国氏の子・国詮は陸奥国安達郡二本松に逃れて挽回を図りますが反撃されて没落し、以後は二本松氏と呼ばれました。
高国の弟・貞国の子を家国といい、その子の国清は南朝との戦いで活躍して和泉・紀伊・河内守護となります。観応の擾乱では直義方でしたが、後に尊氏方について関東管領に任じられ、伊豆・武蔵守護となります。しかし尊氏没後に南朝方と戦っていた最中に関東へ勝手に帰ってしまい、失脚して伊豆へ逃れた末に反乱を起こし没落します。弟の義深は許されて家督を相続、越前守護に任じられました。義深の子基国は義満に仕えて侍所頭人となり、各地を転戦して手柄を重ね、越前・越中・河内・能登・紀伊・山城の守護を兼ね、畠山氏では初めて管領に任じられています。
また基国は朝廷より左衛門佐、のち右衛門督の官位を授かり、子孫も衛門府(唐名は金吾)の官名を授かったため、彼の家系(遡って家国の子孫)を「畠山金吾家」と呼びます。金吾家は本宗家である奥州畠山氏(二本松家)に代わって畠山氏の嫡流となりました。
基国には満家・満慶の2子がいましたが、満家は足利義満に疎まれて失脚し、満慶が家督を継ぎます。義満が薨去すると満慶は兄・満家に家督を返還し、能登一国を譲られて能登畠山氏の祖となりました。満家は義持のもとで管領をつとめ、続く義教にも宿老として仕えました。彼の嫡男が持国です。
持国は義持・義教に仕え、大和永享の乱で功績をあげて大和宇智郡守護に任命されますが、嘉吉元年(1441年)正月に結城合戦への出陣を拒んだため義教の怒りを受け、弟・持永に家督を譲っての隠居を命じられます。しかし同年6月に義教が暗殺されると持国は赦免され、京都から越中に逃げた持永を討ち取って家督を奪還します。同年8月には近江・山城で土一揆が勃発しますが、この中に畠山氏の被官が紛れていたため、持国は管領・細川持之の鎮圧命令に従わず対立し、ついに一揆勢の要求を持之に呑ませました。
9月に播磨の赤松満祐が切腹して乱がおさまった後、翌嘉吉2年(1442年)6月に持之が管領を辞任すると、持国は河内・紀伊・越中の守護職を兼ねたまま後任の管領に就任し、義教の子で9歳の義勝を奉じて幕政を取り仕切ることとなります。持国は同年に出家して徳本入道と名乗りますが、まだ45歳の壮年で、政治の実権は手放しませんでした。
禁闕之変
義勝は同年11月に元服して征夷大将軍となりますが、嘉吉3年(1443年)6月に朝鮮通信使を迎えた翌月、在任8ヶ月で赤痢により亡くなりました。持国ら幕閣は義勝の同母弟である8歳の三春を擁立することとし、彼を「室町殿」とします。のちの足利義政です。しかし相次ぐ将軍の急死は不吉であるとして、三春は室町第ではなく、育ての親である母方の従叔父・烏丸資任の屋敷を御所としました。このため資任は事実上の将軍の乳父として発言力を高めますが、三春の元服や将軍宣下はしばらく行われず、征夷大将軍は空位となります。
この政治的空白の隙を突いて、同年9月に事件が起きました。南朝の残党(後南朝)と称する集団が京都の神泉苑に数百の兵を集め、夜に御所(禁闕)を襲撃したのです。彼らは事前に「室町殿が狙われている」という噂を流して御所の警備を手薄にさせ、清涼殿に押し入って放火し、三種の神器のうち宝剣(草薙剣)と神璽(八尺瓊勾玉)を奪い取ると、後醍醐天皇の先例を真似て比叡山延暦寺に駆け込み、根本中堂に立て籠もりました。
この「禁闕の変」の総大将は、後鳥羽上皇の後胤を称する源尊秀(高秀とも)という人物で、南朝の皇族と称する禅僧の金蔵主・通蔵主を旗頭に担いでいましたが、実質的な首謀者は日野有光という人物でした。彼は義満の縁戚として寵愛を受け、義持の時代には参議・院執権・権大納言を歴任し従一位にまで昇りますが、義持の命令により出家させられ、家督と所領を弟の秀光に譲らされています。さらに義教の命令で残る所領を全て没収され、幕府に対して恨みを募らせていました。そこへ南朝の残党が話を持ちかけ、倒幕のために御所から神器を奪わせたようです。御所を襲撃した兵の中には鎧武者も雑兵もおり、楠木氏や赤松氏の残党が加わっていたともいいます。
後花園天皇は慌てて逃げ出し無事でしたが、三種の神器のうち2つを失った朝廷は正統性において南朝に劣ってしまいます。天皇はただちに凶徒追討の綸旨を発し、管領・畠山持国らは幕府軍を派遣して討伐に向かわせます。比叡山延暦寺の僧侶ら(山徒)も後南朝への協力を拒んで追討側につき、御所襲撃から3日ほどで鎮圧されました。有光と金蔵主は討ち死にし、有光の息子・資親も捉えられて斬刑に処され、通蔵主は四国への流刑の途上で暗殺(事実上の死刑)されますが、尊秀は討たれたとも逃げたともいいます。
奪われた神器のうち草薙剣は、清水寺の僧侶に発見されて朝廷に返還されますが(比叡山で見つかったとも)、神璽は持ち去られて行方不明となり、吉野山中に潜んでいた後南朝勢力の手に渡りました。尊秀が逃げたのならば彼が持って来たのでしょう。後南朝の皇族・円胤(後村上天皇の孫か)は翌文安元年(1444年)8月に神璽を奉じて吉野で挙兵しますが2年後に敗死し、のち長慶天皇の子孫と思われる自天王(北山宮)のもとにもたらされます。後南朝はその後も応仁の乱の頃まで数十年間活動しており、その権威によって朝廷や幕府を南から脅かし続けることとなります。
御家騒動
禁闕の変により朝廷・幕府の権威は大いに傷つけられ、幕府管領たる畠山持国のメンツも丸つぶれとなります。また持国は、守護大名や国人のうち自分と同じく義教に失脚させられた者を復権させて味方につけ、勢力を拡大しようと図りましたが、細川持之の弟・持賢は彼らに敵対する側を味方につけ持国に対抗します。このため各地で家督と利権を巡る内紛、御家騒動が頻発しました。畠山氏と細川氏の代理戦争です。
加賀守護の富樫氏では教家が持国の支持を受け、弟の泰高は細川持之の支持を受けていましたが、持国が管領になると教家の子・成春が守護に任じられます。泰高は加賀から退去せず、在地勢力や持賢を味方につけて抵抗を続けました。信濃守護の小笠原氏では持長が持国の支持を受けて兄の宗康と争い、近江守護の六角氏では持綱が弟の時綱を奉じる家臣団(持国派)と対立して父満綱ともども自刃に追い込まれます。さらに大和の有力国人衆間の争いでは、持国が大乗院門跡の経覚・越智家栄らを、持賢が筒井氏の光宣・順永兄弟を支援します。また持国は西国の大大名・山名持豊を懐柔するため、赤松満政が分郡守護をつとめる播磨東三郡を取り上げて持豊に与えました。
文安2年(1445年)、畠山持国は管領を辞職し、細川持之の遺児・勝元が16歳で管領となります。彼は摂津・丹波・讃岐・土佐の守護を兼ねる大大名でしたがまだ若く、叔父・持賢の後見を受けて持国と争うことになります。この管領交代により、各地の御家騒動も次第に細川派有利に傾きます。
文安3年(1446年)8月、勝元は近江の騒乱を鎮めるため、六角時綱の弟を還俗させて久頼と名乗らせ、出雲・隠岐・飛騨守護の京極持清に支援させて時綱を討伐させます。持清は勝元の母方の叔父で、六角氏と同じく佐々木源氏ですが、六角氏が嫡流で京極氏は庶流でした。しかし京極氏は道誉以来の幕府の重臣として六角氏に勝る勢力を持ち、近江国内の所領も守護不入権を持っていたため、両者は対立関係にありました。ともあれ久頼・持清連合軍は9月には時綱を滅ぼしますが、戦後は持清が功績を盾に干渉を強め、甥の勝元らの支持もあって勢力を広げます。
信濃では小笠原宗康が同年に戦死しますが、弟の光康が守護職と家督を継いで持長との争いを続けます。加賀では文安4年(1447年)に勝元の仲裁で和睦が成立し、成春は北半国、泰高は南半国の守護とされました。大和では細川派の光宣が文安2年(1445年)に持国派の経覚らを打ち破り、奪われていた淀川河上五ヶ関の代官職を回復しています。文安4年にはまたも京都で土一揆が勃発しますが幕府軍により鎮圧され、持賢は同年勝元の後見を終えました。なお同年に勝元は山名持豊の養女を正室に迎えています。
義教の子・三春は征夷大将軍に就任せぬまま「室町殿」として成長し、文安3年(1446年)末には後花園天皇より「義成」の諱を授かります。翌文安4年、空位であった鎌倉公方に足利持氏の遺児・万寿王丸(永寿王丸とも)を任命し、義成の偏諱を授けて「成氏」と名乗らせました。また上杉憲実の子・憲忠を関東管領に任じますが、成氏と旧持氏派は持氏を自害に追いやった憲実らを憎んでおり、やがて騒乱の火種となります。
文安6年(1449年)4月、13歳になった義成は元服し、ようやく将軍宣下を受けて征夷大将軍となります。同年に細川勝元は管領を辞任し、畠山持国が再び管領となりますが、3年後の宝徳4年/享徳元年(1452年)に再び勝元が管領に就任し、以後12年間管領をつとめました。翌享徳2年(1453年)、17歳の義成は後花園天皇の子・成仁の諱を避けて「義政」と改名します。畠山持国は勢力回復を目指して勝元と対立するものの、間もなく自らの家で御家騒動が勃発し、没落していくことになります。
◆室町◆
◆無頼◆
【続く】
いいなと思ったら応援しよう!
