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『PERFECT DAYS』 感じた憧れと恐怖 - わたしの映画時間 vol.1
どうも。
今年のやりたいことリストの中に「毎月映画を観る」という目標を立てた。
私は映画やドラマなどの作品を見た後、必ずと言っていいほどその作品についてパブサしてしまい、自分の考えに最も近い感想を見つけて満足してしまっていた。それはそれで良いとは思うのだが、何を見たって誰かの意見に染まってしまうのが嫌だったのでこうしてnoteに残してみようと思った次第である。
とはいえ、書いていく内容には自分の意見ではなく他人の感想を見て共感した部分を書いていくことが多いと思うが、その辺りはまだまだ自分の意見発表者1年生としてご了承願いたい。
あと、普通に映画の内容に言及しているのでネタバレしたくない方は回れ右でよろしゅう。
*
ずっと映画館で放映され続けていた『PERFECT DAYS』。
映画館に観に行こうかと何度も考えたがなんとなく行かないままでいると、Amazon Prime Videoにて配信が始まったとのことだったので休日に見てみた。
東京・渋谷でトイレ清掃員として働く平山(役所広司)は、
静かに淡々とした日々を生きていた。
同じ時間に目覚め、同じように支度をし、同じように働いた。
その毎日は同じことの繰り返しに見えるかもしれないが、
同じ日は1日としてなく、
男は毎日を新しい日として生きていた。
その生き方は美しくすらあった。男は木々を愛していた。
木々がつくる木漏れ日に目を細めた。
そんな男の日々に思いがけない出来事がおきる。
それが男の過去を小さく揺らした。
カンヌ国際映画祭に選ばれるような作品のストーリーを見るたびに「自分と感性が合わないなー」と思っていたけれど、この作品はとても見たくなった。主人公の暮らしがよくTwitterで言われている「早くこれになりたい」状態のように見えたからだ。
まず初めに、とても映像と音が美しいなと感じた。
竹箒で落ち葉を掃く音、植物に水をやる時の霧吹きの音、木漏れ日、東京の街の都会的な風景。
全てが美しく、こんな映像好きだなー、と感じていた。
主人公・平山の日常はロボットのようにルーティン化されている。
近くの神社の竹箒を掃く音で目が覚め、朝の支度をして、植物に水をやり、家の前の自販機でカフェラテを買い、カセットで音楽を聴きながら車に乗ってシフト通りに公衆トイレを周り掃除する。
仕事を終えた後や休日には、銭湯に行く、馴染みの居酒屋やスナックに行く、古本屋で本を買う、コインランドリーでトイレ清掃のつなぎを洗う、趣味のフィルムカメラのフィルムを現像する。
そして眠くなるまで本を読んだ後、眠りにつき、また竹箒を掃く音で目が覚める。
人から見れば毎日全く同じ日々を生きているように見えるけれど、実際はそうではない。母親とはぐれてしまった子供が母親に連れられる時にこちらを振り向いて手を振ってくれたり、見知らぬ人が置いていた紙でマルとバツを交互に書いてどちらかが3つ並んだら勝つゲーム(三目並べと呼ぶらしい)をしたり、同じ清掃員の若者・タカシ(柄本時生)に振り回されたり。
日々大変だけど小さな幸せを噛み締めながら生きていて、見る前に感じていた通り、単純に平山の生活って憧れるなと思った。
私は自分で幸福を感じる基準がかなり低いと思っている。ブランド品に囲まれたり休みの度に海外旅行をしたりするのではなく(それらももちろん幸福の一つではあると思うけれど)銭湯に行くとか馴染みの居酒屋に行くとかそんなことでいいんだよな、うんうん分かるよ。共感するよ。と思いながら見ていた。
SNSの「いいね!」なんて意味ないよね、そんなの追い求めるより自分がどう感じるかが一番大事だよね、と心の中では分かりながらも、どこかで「いいね!」がほしい気持ちがある。何かをすれば、見れば、行けばSNSに投稿したいと思ってしまう。こんなSNSに毒された私とは違って平山の日常は承認欲求から(本当の意味で)解放されていると思った。
ーーーと、概ねこの映画に関しては好意的な感想を持っているのだが、同時に恐怖も感じていた。なんの恐怖か?それが分からないまま映画を見終えてしまった。
色んな人の感想を読んでいて、平山自身がこの生活を自ら選択していることに気づいた。
物語の中盤、姪のニコ(中野有紗)が登場する。ニコは平山の妹・ケイコ(麻生祐未)の子供でどうやら裕福に暮らしているらしい。ケイコとの会話から、平山と父親には何らかのトラブルがあったことが分かる。つまりは平山も裕福に暮らしていたが、今の暮らしに行き着いたということだろう。
どういった経緯で今の生活を選択したのかは分からないが、自ら進んで選択したというよりは、選択せざるを得なかったのかもしれないと思った。
物語の前半でループのように繰り返される平山の日常に対して抱いていた「憧れ」は、映画を見終わった後「恐怖」に変わった。
これは死ぬまでこの生活を繰り返し続ける平山に対する恐怖ではなく、自分も平山のようになってしまうかもしれないという恐怖だった。多分平山は、誰かから救いの手を差し伸べられても何かが変わるきっかけがあってもそれらを選ばずに日々を生きていくのだろうと思った。だけど、まだまだ若い私はそういった類のものはなるべく選択していきたい。幸福の基準が低いと思っていたけど、恐怖を感じるってことは実際はそうじゃないのかもしれない。
映画はラスト数分間、平山の幸せそうな、それでいて苦しそうな何とも言えない表情が続いてそのまま終わる。この表情は一種の諦めのように感じられた。
ニコと一緒に川の上の橋を自転車で走っている時「(川の先は海だと聞いて)この先へ一緒に行こう」と言われて、平山は「また今度ね」と返した。通っている居酒屋のママ(石川さゆり)の元夫(三浦友和)に「あいつをよろしくお願いします」というようなことを言われて、平山は「そんなんじゃありませんから」と返した。
ここでニコと一緒に海へ向かっていれば、ここで元夫の言葉を受け止めていれば、何かが変わったかもしれない。だけど平山はどちらも選択せずに今の生活へ、日常へ戻っていった。
平山は責任感の無さから選択しなかったのだろうか。それとも今の生活が壊れるかもしれないという恐怖から?自分なんかが良いわけないという自信の無さから?
どれが正解なのかは平山にしか分からないだろう。
*
ここ最近、自分の考えを大事にしようとか自分の価値観を優先しようとか考えていた時期だったから、観ることができてとても良かった。何十年後とかに観たら全く違う感想になりそうだな。
公式サイトのキャスト欄に登場人物の情報が載っているので、観た後に読むとちょっと理解深まるかも。
余談だけど、アパートの鍵を掛けないこととか神社の大木に芽吹いた小さな芽を(一応許可は得てるけど)持って帰ったりとか仕事をしないタカシには怒らないのに自分の仕事が増えるとめちゃ怒ったりとか平山に対して共感できないところは所々ありました。