[十]音楽・刹那・感覚の世界

※他人からは全く共感されようもない、私の感覚に頼り切った話かもしれないが、私にとってはとても重要なことなので記載。

私が音楽を作るとき(作ることのできる条件という方が正しいかもしれない)それは極めて短い感情や感覚が訪れた時、その世界へ意図的に入り込み、私の感覚すべてがその世界に覆いつくされたようにのめり込んでいくことによって形作られる。
何故そのようにして作るかというと、日常的に感じることの出来ていることや、寂しさや嬉しさなどの一層目、表面的な感覚だけを掬い取ることは何かを見失い、忘れ去ってしまう危険性があると考えているからだ。
例えば大切な人との出会い、またそれを失うこと、見たことのない景色への感動、等々あらゆるものが私の感情を生む。もちろん一番大きく感じたものを粗末にしてはならないが(綺麗・嬉しい・楽しい等)その感情を生んだその奥に、いつも何か別の、力を生む原石のようなものがある。
今までの感覚でいくとその原石は何かの出来事に反応し(上記の例でいえば景色を見た時等)言葉上定義された「嬉しい」等として私はまず捉える。
そしてそれは私の肉体を通じて涙や笑顔、時には心拍数を上げたり、鳥肌を立てたりする。

ここで問題なのは言葉で定義されたもので認識してしまう点だ。
しかも私が知識としてすでに持っている言葉でしか認識をしない。
辞書にあるすべての言葉を覚えているわけでもないし、まだ定義されていない事象もあるはずなのに、ここで感覚を留めてしまっては沢山のものを見失い、やがて感じとることが出来なくなってしまうと私は考える。
だから私はたった一瞬の感情や、普段は目につくことのない景色、そういうものに意図的に入り込むようにして音楽を作る。

ではその刹那に入り込む時、何故音楽を作る必要があるのか。
それはたまたま私にとっては音楽が良かっただけかもしれない。
必ずしも音楽である必要があるのかわからないのでこのような表現をしたが、私がその世界へ入り込んでいくとき、音はその感情の奥の原石にまとわりつき、同じ波長で輝き始める。そうやって音を感じている時、私はその原石が目の前にあるような気分になるし、その光やパワーを大いに感じているような気になる。まさにその時、表面的な感情の奥に足を踏み入れることができる。
そしてそれは言葉で「●●という気分です」と言うことはできず、完成した音楽がその形をもって表現する。私が造語で「△という気分です」といえば言葉で言ったことになるかもしれないが、私は言葉で探求することができないから、言葉を造る過程でその原石のエネルギーを感じることはできない。それができるのが音楽だと私が勝手に思っているという話だ。

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