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私自身の頭の中を整理するために記事を書きます。 私の感覚による記事のためエビデンス等なし、ご注意ください。

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最近の記事

[十二]時間の支配・遡行について

目の前の木の実が落ちたとして、それは時計の針が示した数字とは何ら因果関係が無い。 時間が私を支配しているわけなどあるはずがなく、時間は人工物であり、人間が時間を支配していることを忘れてはならないと私は思う。 多くの人間が同様の基準で認識する時間という概念はあらゆることを便利に、物事を円滑に進めることができると思う。しかし、その存在を知りもしない人間がいれば、その数字は全くもってどうでもよいもの。 時間を遡るとはどういったことか考えることがあるが、時計が逆方向に進んだり、映

    • [十一]夢の世界をどう捉えるか

      【はじめに】 この話が中二病的、無価値な話、と感じる方がいることは理解するし、子供みたいな話をするなという意見があればそうかもなと思う。それは、私にとって子供が大人になることがイコール人間的成長とは捉えられないから、外側からみれば子供みたいな話をしているかもしれないから。 【本題】 私はとても印象に残る夢を見たことがある。 その夢の中で私は目覚めた。風貌はナポレオンのようで、一瞬の間に馬に乗り、戦火の中で必死に攻防を続けた。一体何と戦っているのかと思ったのは夢から醒めた後で

      • [十]音楽・刹那・感覚の世界

        ※他人からは全く共感されようもない、私の感覚に頼り切った話かもしれないが、私にとってはとても重要なことなので記載。 私が音楽を作るとき(作ることのできる条件という方が正しいかもしれない)それは極めて短い感情や感覚が訪れた時、その世界へ意図的に入り込み、私の感覚すべてがその世界に覆いつくされたようにのめり込んでいくことによって形作られる。 何故そのようにして作るかというと、日常的に感じることの出来ていることや、寂しさや嬉しさなどの一層目、表面的な感覚だけを掬い取ることは何かを

        • [九]なぜ生きている

          「なんで生きてるんですか?」私はこのように問われたことがある。 今も考え続けていることだが、なんでと言われても私がこの世にこの肉体を持ってどうしても生まれてきたいと意思決定した記憶がないから答えようが無い。少し捉え方を変えてみて、なぜ今も生きる選択を続けているのかとえてみることにした。 死を選択することなく、今も息をし続けているのは強い意志によるものか、それとも死に対する脅迫観念のようなものか。いろいろと考えたが私はこのように思う。「何れ肉体的に死を迎えるのだから、わざわざ今

          [八]バベルの塔を作りたいのではない

          音楽の起源は手拍子かボディスラムか歌か、いったい何をもって音楽と呼ぶべきだろうか。私は音楽を聴くことも好きだが、特に作るときに喜びを感じる。 私自身が音を選択し続けることで作りあげていく時、その軌跡を振り返って得る感動や思い出は私にしか味わうことのできない感覚であり、それは日常生活では体験できない領域の自己陶酔と呼んでもいいかもしれない。 そうやって音を積み上げていき、結果的に作り上げたいものはバベルの塔ではない。もっと内向的で、それはあくまでも私の中に生まれ、存在し続ける

          [八]バベルの塔を作りたいのではない

          [七]言葉と時間と感受性

          言葉はコミュニケーションをとる上で便利だが、言葉で捉えることのできるものが私の感じられるものの全てではない。 「昔は〇〇だった、子供のころは・・・」 時間はタスク管理にも使える。数学・科学も多くの未知なる謎を解き明かしてきた偉大なもの。音楽の周波数やチューニングさえ、デジタル管理できる。しかしながら時間が雲を動かしている訳ではない。時間が私を変化させているのではない。揺れる木々が時間を進めているのではない。 当たり前のように使っているツールこそ、何のために存在しているのか

          [七]言葉と時間と感受性

          [六]社会で病む者

          この見出しに該当する人間は過去の私である。 私はまるで社会の奥深くに埋没したように、そこに参加している時こそが生きている価値であり、私の唯一の居場所であるかのように考え過ごしていた。しかし、今では考えが変わったためそれは後に述べる。 そもそも社会というのはあらゆる共通ルールが成立することにより成り立っており、というか共通ルールそのものの塊である。まるでこの世界に生きる理由は社会貢献することであるとか、そんな風に考えていると過去の私のように病む。もしくはその数多のルールという檻

          [六]社会で病む者

          [五]意図的に疑問を捨てる<風貌について>

          音楽を制作する人間または演奏する人間の風貌をどのように捉えるか。 主に気になった点は以下  ・私自身が音楽を制作する際の風貌  ・音楽を制作する部屋の見た目  ・音楽を聴くときの機材の見た目や質感、スタイル これらに気を配る必要があるのかどうかについてだが、相手へ何か伝える段階で見た目というのが手段として活きるのであろう。私自身が音楽を聴くときに、演奏者や製作者の見てくれを気にしないため、私が音楽を公開する際の佇まいをどうするべきかということだ。 映像作品との共作の場合は

          [五]意図的に疑問を捨てる<風貌について>

          [四]労働=生き甲斐とはしない

          労働とは、社会を構築するために必要なものであり、それは本来の生き甲斐といえるだろうか。いつの間にか今行っている労働が生き甲斐であると認識していないか。先にも述べた通り、私にとって社会とは生命維持装置であるため、それを構築するために労働が必要である。試しに現時点での全ての労働が自動化され、またはコンピュータによる置き換えができたとして、それでいて社会が安定するのならばそれは私にとって大変望ましいことだと考える。 一点注意しておきたい点は、生き甲斐を労働としている者についてだが、

          [四]労働=生き甲斐とはしない

          [三]”社会”と”私の音楽”の関係

          まず”社会”の定義を示しておきたい。といってもこれは私の考える定義のため、一般論とは異なるかもしれない。私の考える”社会”とは、生命維持装置。人口をみても明らかだが、社会を一切構築せずに皆が生命を維持することは困難であると考えている。社会を壊せば秩序は消え、肉体的に弱き者から死んでいき、毎日欲望を満たすためだけに生き、、、。 社会に参加することがネガティブであるかのような表現をする人間もいるが、私はそうは考えない。仮に社会に参加することがネガティブであるとすれば、「社会に参加

          [三]”社会”と”私の音楽”の関係

          [二]秩序を重んじるか否か

          音楽を聴いていると度々そう思う。次に鳴るコードが予測できたり、テンポは決まっていたり。時々そこから脱線したかのように思わせたり、戻ったり、そんな遊びのように。果たしてこのエンターテインメントに意味があるのか。まるで台本通り、「全てご安心あれ」と優しく囁かれているよう。 全ての音楽にそう言っているわけではないが、やはり私自身が制作するに対して、私自身がそのように感じてしまえば納得はいかない。そもそもキッチリと整備された音階で組み上げる物は、秩序の塊か。そういえば世の中に秩序はあ

          [二]秩序を重んじるか否か

          [一] 私自身を探究するために

           一般に音楽は他者が聴くことを前提に制作する。しかし、この方法は私自身が求める”私自身の探究”であるのか、疑問である。 他者がどのように音楽を評価するのかを前提に制作を行うことで、社会性が大きく影響し(私の考える社会については別途記述する)、結果的には私自身の制作したいものが制作できなくなり、私の探求はできなくなってしまうのではないだろうか。例えば歌詞ではそのようにして言葉を選び、音階はどうしようか、これらの選択に社会性が大きく及ぼすことを懸念している。私自身、音楽制作におい

          [一] 私自身を探究するために