見出し画像

「天才少年」が選んだ道

同級生に「将棋の天才少年」が

小学校時代、私の同級生に「将棋の天才少年」がいた。確か最初に同じクラスになったのは、小学校の五年生の時だった。私は将棋のことにはまったく疎かったので、まず「将棋」というものの社会的な存在感が分からない。しかも私自身が将棋というゲームに無関心だったので、将棋の天才少年ということの具体的な意味が理解できていなかった。「将棋の天才少年」という言葉は、彼の天才ぶりを報道した新聞記事のヘッドラインだったが、野球などのスポーツの天才少年であったら、私のような世間のことに無関心な子供にも一定のインパクトがあったかもしれない。そんなわけでこの「将棋の天才少年」は、学校の生徒はもとより、学校の周辺に住んでいる地域住民の間でもちょっとした話題の少年だった。
私が将棋というゲームや「将棋の天才少年」という優れたブランド性を少しも意識してくれないので、この天才少年「渡橋君」には嫌な同級生ということになるが、実は渡橋君は彼の方から私の方にアプローチしてきて、いつの間にか「親友」という関係になったのだった。とはいえ渡橋君は、熱き友情に応えるというホットな体質の人間ではなく、彼のシニカルな皮肉が分かるクールな理解者といったところに私の価値観を置き、それが長く友情が続いた原因ではなかったかと思う。

小学生の天才少年は30人の対戦者の挑戦を受けた

ただ将棋の天才少年というのは校内や学区内の地域では大きな存在だった。私がそのことをわが目で確認したのも学内と、地域社会が重なり合った絶好の場面だったのだ。その時学校では、運動場の整備工事が行われていて、大勢の土木工事の労働者が学内にいた。その労働者たちは、新聞で「将棋の天才少年」のことをよく知っていたのだろう。労働者の昼休みと学校の昼休みは若干ずれがあるが、ほとんど同じような時間に設定されていたので、昼食を食べた後のその両者が運動場で自然とたむろしている状態にあった。そのうち、労働者の中から自然と、「将棋の天才少年の渡橋君」はどこにいるのかといった声が挙がっていた。何分小学生は単純なので、一人の生徒が先生にも告げず「渡橋君」を黙って連れてきた。すると、「渡橋君」の周りには大勢の労働者が取り巻き、それぞれポケットから白いハンカチに墨で将棋盤を描いたものを取り出してきた、そして反対側やお尻のポケットから、ちょっと小さめの将棋の駒を出してきた。

「渡橋君」もやはり勝負師なので、およそ30人くらいの労働者が適当に廊下や校庭のベンチ座って、将棋を始めようとしたのを見て、「渡橋君」は挑戦に乗ったのだった。「渡橋君」は、この30人の労働者を同時に相手にして、一人の労働者に将棋を指すと、またその近くにいる次の労働者のハンカチに描いた将棋盤に向かって次の一手を指すといった段取りで、一人対多数の勝負をこなしていった。昼休みと言っても長いものではないので、今にして思えば短時間だったのだろうと思うが、次々と一気に30人を制していった。大人になってから、将棋や囲碁、チェスなどで渡橋君と多数の労働者が対戦しているようなゲームの模様は何度か見たことがあったが、まあ言ってみればその時は意図せず、勝負師としての本能がそうさせたのだろう。

中学校への入学を機にプロ棋士への道を断念

ところで、あまり私に相談などしなかった「渡橋君」だったが、小学校を卒業して中学校に進むときに、プロの将棋指しになるか、このままアマチュアとして将棋を楽しみながら、一般の学生の様に高校、大学へと進み、いわゆる社会人として生きていくかの選択で悩んでいた。
私としては、将棋においてそれほどの才能に恵まれるのはまさに、神に与えられたものなので、その一点に人生をかけるべきだと言った。渡橋君とはそのことについて何度か話し合いをしたが、結局彼は中学校の入学を機にプロ将棋の道を断念した。私には理屈は分からないが、ずいぶんもったいないことをする男だと思ったことは、まだ記憶に残っている。

それから「渡橋君」は、偶然だと思うのだが中学校、高校と同じ学校に進み、彼は東京大学ではないが、工学系の最高学府に入ったのだと思う。大学時代に彼と何度か映画に行った記憶はあるが、いつの間にか付き合いは自然消滅していた。「渡橋君」はとてもユニークな男だったので、今も時々思い出すが、「将棋指し」という勝負師が、あっさりと生涯を輝かせてくれるはずの栄光を捨てて、普通の社会人への道を選んだことは、ある意味そこにこそ、彼にとっての人生という勝負の分岐点だったのだと思うことがある。自分の天性と向き合って、結局社会人へとハンドルを切ったことが、彼の人生における勝利への的確な道だったのかと思うことがある。


この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?