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欲望の遺伝子

傲慢で強引な人は社会での競争に強い

少し考えればすぐに分かることだが、「ずるくて」「ケチで」「強引な」人間は人の迷惑をまったく考えないので、人間社会での競争にも強い。また、こういう人には公正・公平という観念が弱いし、法を曲げることにも比較的に躊躇がないので、基本的にはこうしたタイプの人が社会的に成功を収めることが多い。しかし大方の人はこの事実を認めるのが悔しくて、テレビの時代劇などでは、「天につばする者をお天道様が許すはずがない」と言わせて、何とかやせ我慢している。しかしこれは語るに落ちるというもので、ほとんどの人は傲慢で強引な人には勝てないということを暗に認めているということだと思う。
こうした傲慢で強引な人がいつも世の中の勝者であり続けると、ますますこの手の人が力を得て、類をもって集まるではないが、世の中自体が勝者の論理で構造されることになる。そのような世の中になると、ギスギスした人間関係と、仕事でも生活の場面でもいつも争いが絶えず、不公平な究極の格差社会がやってくるような気がする。それだけではなく、やがて勤勉で協調性に富んだ日本の働く人のことを考えれば、社会自体が存在し得なくなるのではないかとさえ思う。

遺伝子が傲慢な遺伝子を求めるのか、あるいは捨て去るのか

しかし、国際的にも評価の高い著名なイギリスの動物学者、リチャード・ドーキンスの著作「利己的遺伝子」が示しているように、自然の力を過小評価してはいけない。傲慢で強引な人間がどんどん増えて社会の存立が危うくなると、私たちの遺伝子全体の判断としては、傲慢で強引な人を減らして、温和で他人との調和を大切にする人を増やすように働き始めるかも入れない。とはいうものの、もし遺伝子の判断が、傲慢で強引な人を増やすことによって、いったん人間社会を崩壊させて、大幅に人口を減らすことによって自然界から不遜な人間の影響力を削ごうとしているのなら、遺伝子がどちらの方向を向こうとしているのかは微妙なところだと思う。場合によっては遺伝子の判断が、当面の間は傲慢で強引な人間を増やそうという方向に働くかも知れないのだ。

今の日本は、社会システムやインフラ、組織構造はきちんとできているのだが、何より致命的なのは、上から下まで責任を取る人を作らないので、というより責任を取ることをしないので、世の中は「盗ったもん勝ち」「騙したもん勝ち」「逃げたもん勝ち」になってしまっているのだ。「ずるくて」「ケチで」「強引な」人が多いからそうなったのか、あるいは責任を取る人がいなのでそうなったのかは知らないが、とりあえず、とんでもない社会になっていることは間違いはなく、それを何でもないように感じている私たちがおかしいのだと思うのだ。

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