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二度目の京都

近くて遠いのが大阪と京都の距離

私は幼いころから高校を卒業するころまで大阪に住んでいた。その後わが家の稼ぎ頭の一人が京都のしかるべきところからヘッドハンティングを受け、また私の兄の一人が京都の大学に入学することになったので、家族会議の結果私たちの一家は大阪から京都に転居することになった。そこから私の京都生活も始まるのだが、まずわが家が引っ越した先は、京都の下鴨神社の界隈だった。大阪では私鉄沿線の比較的賑やかな駅前に住んでいて、家の周りはパチンコ屋や飲み屋、麻雀屋に囲まれていた。そこから突然下鴨神社の糺(ただす)の森に隣接したところに引っ越したので、環境は激変した。
糺の森は古代から生息している日本の原始林をそのまま活用していたので、下鴨神社に近接した土塀沿いに家があった、わが家の庭には山鳩は言うまでもなく野生の雉(きじ)まで訪ねてくるのだった。庭には大きく太い、確か楡(にれ)と思われる樹があって、私が背伸びすれば手が届く高さの樹の股のところに大量の木耳(きくらげ)が密生していた。ただこの家で残念だったことは、明治時代以前に建てられた古民家というのではなく、比較的新しく建てられたもので、家を建てた人も根っからの京都の人ではなくて、ごく当たり前の普請だったことだ。立地は抜群だったが、家はごく当たり前なものだった。

下鴨神社から東寺へ、やがて大阪、東京を経て二度目の京都に

そのあと私も家を出て、やがて結婚して京都市の北東の方角にあった下鴨神社のある場所とは真逆の位置の、南西の方角にある東寺の近くに住むことになった。下鴨神社も東寺も、何れも京都を代表する古社、古刹で、今では多くのインバウンドの観光客が押し掛ける超観光スポットになっている。下鴨神社も東寺も、まさに朝夕の散歩の距離にあったので、当時は週末になると、気ままに下鴨神社や東寺に足を延ばし、まさにわが庭と言ったところだった。しかし、やがて仕事が次第に軌道に乗り始めると、毎日京都に帰ることも難しく、私たち夫婦は心ならずも京都を離れて大阪に居を移すこととなった。また、その延長上に東京を仕事の場に選ぶという成り行きになり、私たちは結果的に長い間京都を留守にすることになった。

そして長い時間を経て私たちは、やがて京都に戻った。ただ私たちが京都に戻ったのは、リタイアしたのちの悠々自適のセカンドライフなどではなく、むしろ、これまでにない新しい先進的なビジネスをスタートさせるためだった。私たちが京都に戻ったのは、実はその新しいビジネスがスタートさせる場として京都という街がどうしても必要だったからだった。まさに私たちにとっては二度目の京都だった。

インバウンドの萌芽期から全盛期へのタイムスリップ

私にとっての一度目の京都は輝いていた。それは歴史に磨かれた美しい街と言うだけではなかった。当時の京都は、今をインバウンド全盛期と呼ぶとすると、その当時はインバウンドの萌芽期で、ヒッピーやビートニックの詩人たちや世界のアーティストたちが京都の街に押し寄せていた、ヒッピーの開祖といってもいいようなアメリカの詩人アレン・キンズバーグが京都にいたころだった。それだけではなく、その頃はまた日本の学生たちにとって政治の時代で、60年安保闘争と、それに続く70年安保闘争、さらに世界の学生たちがシンクロニシティ(同時代性)的に連合して始まった世界的な学園闘争の一つの大きな拠点が京都だった。

私は、この京都にとっての政治の時代、国際化の時代、モダナイズの時代が入り混じった京都の街に異邦人として迷い込んで、何をすればいいのか、何をしなければならないのか悩みながら過ごしたのが一度目の京都だった。私なりにはいろいろなムーブメントに参加しながら、京都が新しい時代の幕開けの街だと勝手な幻想を育んでいたが、私たちの前に立ち塞がる執拗な 京都の拒絶に勝てるはずもなく、やがて生活に軸足を移し京都を離れた。
そして長い年月を経て二度目の京都と再会することになる。久方ぶりの京都はいかにも京都らしかった。街のビルはことごとく京都らしい装いをまとったホテルになっていて、また何気ない普通の個人住宅が町屋風の小さな民泊の部屋にリニューアルされていた。京風の土産物店が並び、見た目はますます観光都市京都の風情を色濃くしていたが、洛中で古刹、古社以外にはもうかつての京都はないように感じられた。皮肉なことに私たちがこれから京都で展開しようとしている仕事は、京都の歴史と文化の欠片を拾い集めて、明日へと向かう京都の文化、芸術を再構築する仕事だった。

私の奇妙な仲間に日本のプラットフォーム事業の先駆けで、第一人者、そしてプラットフォーム事業に生涯をかけているS氏がいる。プラットフォームとは、アメリカのアマゾンや日本の楽天、中国のアリババのような受発注のデータベースとネットワークをベースにしたEコマース系のビジネスだ。その奇妙な仲間から、この事業への参加を呼びかけられた。これを京都を舞台に、世界でも類例のない機能を搭載して次世代のプラットフォーム事業を目指している。ニ度目の京都での仕事ととしてはなかなかの設(しつら)えだと、作業は大変だけれど、楽しみは日毎に膨らんでいる。



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