歌詞についての一所見
どうもフジツバメです。
今回は歌詞の話をします。前置きは短いほど良い。
セックスがうざい
歌詞に出てくるセックス関連のワードって何であんなにウザいんでしょうね。セックスを指す単語はもちろん、「コンドーム」とかも苦手です。
以下、仮説を立ててみます。
ずばり、「俺はセックスを歌詞に登場させることができるくらい、異性との性的関係が身近なんだぜ」という作者の意図的な部分と、「歌詞に登場する」という事象が有する「現象の特別視」の二律背反がキショいから、ではないかと考えます。
意味わからないと思うので順番に。
ある言葉を歌詞に登場させる、というのは、その言葉が作者の脳内辞典にあることとイコールで結ばれます。
脳内にないワードは歌詞に出てくるわけはないですし。
ただ、あまり日常的に使わないワードを使ってしまうと、それはそれで気取った感じになってしまう。
歌詞に「ペトリコールの〜」とか「シャーデンフロイデが〜」って出てきたら鼻につくじゃないですか。気障な感じ。ウザい。
そんなわけで、歌詞に出てくるワードというのは「作者の周縁にある言葉」ということが想定されます。歌詞であるというその時点で、何らかの日常に根ざした言葉であることが前提として受け入れられる文脈にあることになる。
(脱線:フィクションが題材の歌詞もありますが、あれは「主人公視点の日常的」を示唆していると考えます。そして主人公の視点、ないしキャラクター全般においての視点というものは、「作者がそれを日常の範囲内で想像しうるもの」であることを前提します。ちょっとこのあたりの話を始めると「虚構キャラクターの存在論」「フィクションの哲学」とかと相まってヤバそうなので一旦スルーしておこう。興味のある方は分析美学とかK.L.Walton、芸術哲学とかを参照なされ。)
ということで、セックスの話を歌詞に出すと、「性的な話が日常的に周辺にあるんだぜ」感が出るわけですね。
他方、歌詞というのは「詞」であり、一種の「詩」です。
何かを詩にして残す、というのは、言葉の冷凍保存をしているようなもので、何か「心に残る」「印象深いもの」だから保存するわけです。
となると、逆に、歌詞はそれ自体の特性として「ある語や文章、そしてそれらにより表される現象を特別なものとして切り取る」という性質があることになります。
ということで最初の話に戻ります。
「俺はセックスを歌詞に登場させるくらい、異性との性的関係が身近だ」という作者の意図と、「歌詞に登場する」という「現象の特別視」の二律背反がキショい。
ということでした。
さて、この分析から歌詞というものの1つの独特な性質が抽象できます。
歌詞は「日常」を、「特別な」「神聖な」ものとして切り取るもの、ということになります。
これは俳句とかと似ているかも知れません。
「日常的」「周縁的」と、「特別視」「神聖視」、この相反する二つの性質を有するのが歌詞というものの特徴、ないしは異常性です。
二律背反、また哲学ではこの類の「一つの対象に相反する性質が同時に共存し成立している」状態を「弁証法的」とかって言ったりします。(軽々しく使うとどっかから怒られそうだけど、、、)
恋愛が多い
歌詞に恋愛関係のものが多いのはこの歌詞の弁証法的性質によるものと考えられます。
日常的な風景が、恋心によって神聖なものとして見えてくるわけですよ。恋は盲目ってね。
それに、恋愛感情って日常的じゃないですか。呪われてるみたいに四六時中相手のことを考えてしまう。そしてそれは相手が特別だからこそ起こる一種の病気なわけです。恋は病ってね。
恋愛ソングが多いのは、恋愛が歌詞の「日常性」と「特別視」の二律背反との折り合いがつきやすい題材だから、という説明ができます。
まあだからこそ僕はそこに逃げ込まないようにしたいんですけどねー。
音楽ではない?ー音楽は魔法?ー
歌詞って音楽じゃないですよね。(うわ、各所から怒られそう)
音楽はあくまでも音の性質や音の構成から成立する、「音に関するもの」なので、歌詞の文章それ自体は音楽ではないでしょう。
(脱線:4分33秒の話を持ち出して「音楽が音に関するものじゃない!」という声もありそうですが、あれは「無音」であることが特徴的である時点で「音に関するもの」です。このあたりJ.Cage本人の著書"silence"で言及があった気がします。適当。)
(脱線:他方で歌詞の母音や子音の響き(ア行なのかイ行なのか、ア段なのかカ段なのか)は音楽の要素です。韻を踏んでるかとかは結構重要な要素たりえる気もする。ここで「音楽じゃない」と言いたいのは歌詞の内容や詩的表現などの話。では、「歌詞の意味が通りつつ韻を踏む」と価値があるとみなされるラップはどうなのか、というと僕は総合芸術(オペラとかと同種のもの)として考えてます。)
この音楽に対する歌詞のあり方が原因で、「音楽は魔法か」論争が起こっているのではないか、と考えています。
歌詞を重視すると音楽は魔法ではない結論になる。
どんなメッセージをもってしても、どんな救いの言葉を並べてみても、自分は自分でしかない。または、本来なりたかった自分ではない。その絶望を拭う方法はない。その「本質的な絶望」に私達は無力なんだ、と。そう考えると「音楽は魔法ではない」という気持ちもわかります。
(脱線:ここでいう「自分はどこまでいっても自分でしかない」絶望と「自分は本来なりたかった自分になれない」絶望については、表裏一体らしい。キルケゴール『死に至る病』を参照。このあたりは「実存主義哲学」と呼ばれる類ですね。彼いわく、この絶望こそ「死に至る病」で、「神への信仰によって克服できる」とのこと。。。また色んなところから怒られそう。)
他方、音楽を歌詞、メッセージ性から切り離してみてみると、それを通じて色んな人がハッピーになれたりする。皆で気持ちを共有できたりする。
何なら、歌詞というややこしい二律背反も音楽になら乗せることができるし、それをシェアすることができる。そう考えると「音楽は魔法」というのもそれらしく聞こえてくる。
以下、僕の個人的な意見。
宇宙人が初めて地球人を観察しているとしよう。
何かコンサートホールと呼ばれるデカい建築物がある。
"なんだ、こんなバカでかい建築物作りやがって"
そこにはたくさんの人間が同じ方向を向いて、何をするでもなく黙って座っている。その視線の先には、見ている人よりも圧倒的に少ない数の人間が音を出している。
その音が止むと人々は一斉に両手を叩く。歓声が聞こえてくる。
"なんだ、さっきまで黙ってじっとしいてたかと思いきや突然騒ぎやがって。何が起こっっているんだ?"
次にライブハウスと呼ばれる施設へ行くと、前の方ではガチャガチャと音がなっている。そしてそれを取り巻く人間たちは踊り狂い、グチャグチャに密集しながら拳を突き立て、汗を垂れ流して騒ぎ立てている。
"こんな狭い場所で息苦しいのに何を考えているんだ"
その宇宙人から見た人間は、気が狂っているかのように思うかもしれない。
これを説明する言葉として、我々の言語でいう「魔法」が選ばれる可能性はそんなに低くないと思うのですが。
歌詞に不要な語?
歌詞って、散文(普通の文章)だとダサくなると思うんですよ。
「私は昨日唐揚げを食べました」って、歌詞っぽくないですよね。
何故かというと、歌詞は日常と特別なものとして「切り取る」ものなので、切り取りがきちんとしてないと掴みどころがなくなっちゃうわけです。情報が散ってると歌詞の世界観に入り込めなくなる。
そもそも楽曲という制約上、無限に言葉を連ねることはできないので、歌詞なんてできる限り短くまとめた方が良いと思ってます。
それと、もうわかりきった不要な語が歌われていると、それを楽曲中で聞いてる聴者はその不要語の分の時間には歌詞から新たな情報が得られないので、よっぽど韻とかがキレイじゃない限り、冗長で退屈に感じられてしまう。
「私は昨日唐揚げを食べました」を歌詞にするなら、理由が必要なんです。なんでそれを切り取るかの背景とか、なんでその言葉がなければいけないのかといった、理由がないと意味がない。
以下、「私は昨日唐揚げを食べました」の各単語に対する考え方です。
1.私
「私」はそもそも要らない。歌詞は「私の話」に決まっているので。強いて言えば、他の部分で出てくる「君」や「彼」、「彼女」、周辺の風景、無生物との対比をする必要があるならあっても良いかも。
『透明少女』の「俺」は、「少女=彼女との対比」かつ、主人公の一人称が「俺」であることに意味がある(一人称代名詞が「俺」であるような、どこか粗暴な人格を示唆している)から成立している、と考えられます。
2.昨日
「昨日」は、「今日」や「明日」と対立させるか、「過去であることを強調したい」なら意味がある。ただ、時系列的に過去であることを示したいだけであれば「〜だった」という語尾にすれば済む話なので、よほど対比や強調の文脈がないと使えない感じがします。
『ギブス』の二番に出てくる「昨日」は、一番の「明日」と対比になっていて、かつ「昨日」は「過去」の示唆、「明日」は「未来」の示唆となっているので成立しています。
3.唐揚げ
「唐揚げ」は世界観に合っていて、かつ他の料理と対比する、とかなら入れても良いかも。または「手料理性」の象徴として描く、とか?少なくとも僕なら出さないです。具体的すぎて世界観がポップになりすぎてしまう気がする。
radwimps『いいんですか』では韻を踏むという目的と、好物であることの文脈、家庭的なイメージから「鶏の唐揚げ」が成立します。音楽の明るい感じがあってはじめてポップな語を使う土壌が整う感じもしますね。
4.食べました
「食べました」は普通「ました」が要らなくて、「食べた」で良い。「ました」にすることで口語的かつ尊敬語であることに意味があるなら入れても良いかも。
くるりの『東京』で「〜ました」「〜です」が許容されるのは、「手紙性」があるから。手紙というのも文の形式としては独特で、人に伝えるものだから口語的であることが許されるけど、手紙として切り取る以上は情報の取捨選択がなされている、という前提がある。「君」への手紙的な形式を取るためにあえて尊敬語を維持している形です。
好きな歌詞
つらつら書いてきましたが、最後に僕の好きな歌詞を3つほど。
1.演劇テレプシコーラ
どの詞もめちゃくちゃ好きなんですが特に二番Bメロが天才的。
「影絵になって」→表象物は輪郭だけであり、自由意思が少ない
「人形になって」→自分自身で制御が効かないことをさらに強調
「踊り踊れ」→それまでの連用形「〜って」と"え行"で韻を踏みつつ、命令形。意思がなく指示(台本?)に従って行動している
「言葉を吐け」→行動だけでなく言葉(より精神的な部分)も制御不能
「拳銃を持って」→連用形で韻を踏みつつ、聴者の視点が手元に映る
「拳銃を持って」→繰り返しにより聴者の視点はさらに手元に集中する
「世界を撃ち抜け」→世界、というスケールの大きさが手元に集中させた聴者の意識を彼方まで飛ばす。命令形(強い口調)により最高の勢いで展開する
彼は正真正銘の天才だと思います。歌詞としては完璧すぎる。
2.九龍レトロ(及びトーマの曲全般)
雑多で飽和しているサウンドに対して、歌詞の情報量が少ないと「歌詞が負ける」ことになります。近年のポストロック系のバンドはその傾向が強いと思っています。歌詞が弱い。
それに対して彼の楽曲は歌詞の情報量が楽曲の情報量に負けていません。
異世界の人物を主人公とすることでどんな突飛なワードも内包できるんですね。
どんなに突拍子もない語でも「主人公にとって日常です」と言い張ることができる。
だからどんなにサウンドが雑多で飽和していても張り合うだけの世界観が構築できる。
で、さらに気持ち良いのは体言止めです。
名詞で歌詞を止めて文章にしない。
これによって、主人公から見た対象物への評価や感情を保留して、眼の前にあるただの風景、事態として位置づけられる。
文章にしてしまうと何かしらの形で動詞(be動詞含む)が必要となってしまい、主体の対象物に対する関係や評価値が自ずと決定してしまうのですが、それを回避する一番良い手立ては体言止めだと思います。
3.strobolights
これはヤバい。やりすぎ。
歌詞は以下の通りです。
まず、語の響き的に音楽を邪魔しないことを目的とした歌詞のはずです。気持ちいい子音や母音を狙って作られている。
それから、テクノサウンドの無機質感を表現するのに数式や2,4といった数字を使用、
かつ、浮遊感(冷静な判断能力がない感じ)を表すためにあえて+を「たす」、-を「ひく」と発音させ、日本語と英語の境界を曖昧にしたり、=を"is"として扱ったりしている。
それでいて、「愛」や"true heart"、「愛の灯のライト」で多幸感溢れる世界観を崩さず、さらに"-sunset"でちょっとした憂いも表現している。
また、すべての「日々」「ひと」「こと」という一般的な名詞に対して「綺麗」というワードを混ぜることで、フワフワした世界観にアクセントを加えている。
それとここ、「綺麗」というあまり名詞的に使わないものを主語としていることで、曖昧模糊とした世界観をさらにブーストしている。
もう全てのバランス感覚が完璧すぎます。これは一生追いつけない。敵わね〜〜〜
まとめ
今回主張したいのはざっくり言うと一点。
歌詞というのは「日常的」「周縁的」でありつつも「特別視」「神聖視」という側面を併せ持っており、弁証法的である。
まぁ別に僕の言ったことが全部正しいとは思わないです。みなさんはどんな歌詞が良い歌詞だと思いますか。そして、歌詞ってなんだと思いますか。
今後も皆様が素敵な音楽ライフを送られることを祈ります。