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いましばらくは荒野で מדברとדבר

 生活に追われていると、心が渇く。知的好奇心が乾燥してミイラのようになっていく。そんな中、友人と話して、再び少し水を得た。折しも火星探査機「忍耐:perseverance」が無事に着陸したとのニュース。

 初録音という火星の風の音、画像処理されて美しく加工された火星の360度パノラマに息をのんだ。1969年7月20日、月面に人類が到達した日の喜びをぼくは知らない。きっと、こんな気分だったのだろう。そう思った。

 友人との会話の中で、ふと荒れ野に関する話を思い出す。教会などでは、わりによく語られている話かもしれない。ヘブライ語で「荒野」を「ミドバル:מִדְבָּר」という。そして「言葉/事柄」を「ダバル:דְבָּר」という。字面もよく似ている。違いは、メム(ヘブライ語アルファベットM)の有無だけである。

 ぼくが教会の説教で聞いた話では、ヘブライ語における「荒野」と「言葉」は語源において繋がっている。なぜか。なぜなら「荒野」とは「神のことば」以外、何物も存在しない場所だからだ。もしそうならば、イエスが「荒野」で悪魔の誘惑を受けたこともうなづける。荒野に行き、ひとり孤独を噛みしめて、内なる神の言葉に聞いて、誘惑と戦う…。

 また他にもイザヤ書の有名な場面を思い出す。干からびた世界に神の救いが水のように潤いをもたらすイメージで引用される個所だ。

あなたがたは、さきの事を思い出してはならない、また、いにしえのことを考えてはならない。見よ、わたしは新しい事をなす。やがてそれは起る、あなたがたはそれを知らないのか。わたしは荒野に道を設け、さばくに川を流れさせる。野の獣はわたしをあがめ、山犬および、だちょうもわたしをあがめる。わたしが荒野に水をいだし、さばくに川を流れさせて、わたしの選んだ民に飲ませるからだ。(口語訳:イザヤ書43章 抜粋)

 聖書の文脈で「荒野」という語を聞くと、宗教的で文学的な美しい場面が思わず浮かんでしまう。孤独と肉体的極限の中で内奥に響く神の声に聴く預言者、または干からびた大地。しかし、そこに神の救いの約束と喜びが到来し潤いで満たされていく…。嗚呼、キリスト教ッッ!

 でも、考える。本当に語源において繋がっているのだろうか。ざっと検索し、さらに詳しい学者に聞いてみたところ、どうやら完全に間違いらしい。「…魅力的な俗説ではあるけども…(笑)」と一蹴されてしまった。

 つまり、ぼくが思い浮かべたイメージは間違っている。

 まず辞書的な意味を簡単にまとめておく。BDBいわく、ヘブライ語「荒野:ミドバル」は、①平野(a.牧草地 b.無人の平原 c.都市の外にある広大な土地)、②話すための口、である。ゲゼニウスも似たような感じで「砂漠ではない牧草地」「群れに餌を与えられる場所」としている。

 なるほど、少々古いが一般的な辞書も、多くの人々の想像とは違う景色を指している。峻厳でゴツゴツとした岩地、荒涼とした大地に、死を覚悟した預言者が一人、内なる神の声を聴くためにいく場所、それは「荒野:ミドバル」ではない。

 懇意にしている学者に聞いたところ、ヘブライ語の兄弟言語、セム語系のシリア語、アラビア語には同じアルファベットで別の音や意味になるから、言語学的にも「言葉」と「荒野」を同一語根と考えるのは無理だ、とのこと。

 曰く、そもそもヘブライ語には「砂漠」を表す表現がいくつかある。しかし「荒野:ミドバル」は、多くの日本人が想像する荒涼と荒れ果てた大地ではない。まず「ユダの荒野」には季節がある。乾季と雨季があるのだ。雨季には緑になり花咲く土地――「荒野:ミドバル」は、いわゆる砂漠ではない。雨が降って花が咲く土地なのだ。さらに言うと「ミドバル」にはベドウィンが住んでいる。人間が放牧しながら生活可能な土地、それが「ミドバル」である。

 このように教えてもらうと、上掲のイザヤ書のイメージが変わってくる。神は言う。『わたしは荒野に道を設け、さばくに川を流れさせる。野の獣はわたしをあがめ、山犬および、だちょうもわたしをあがめる。わたしが荒野に水をいだし、さばくに川を流れさせて、わたしの選んだ民に飲ませるからだ。』

 神は荒野における「季節の循環」を支配している。それゆえ山犬も駝鳥もすべての生物が、神を称えざるを得ない。生命の巡回、生態系の保全者こそが神だからだ。

 大胆に要約しよう。預言者は岩地で孤独を噛みしめてはいない。そこは荒涼茫漠とした厳しい砂漠ではない。「荒野:ミドバル」には人が住み、めぐる季節がある。つまり、残念ながら、イザヤ書のこの個所は「干からびた世界を水のように潤す神の救い」について語っていない。

 前後を読めば明らかながら、むしろ神は自然環境の保持者、創造主として人に呼び掛けている。それが、このイザヤ書における「荒野」である。預言者モーセが砂漠を進んだこと、また水による潤いのイメージと救いのイメージが重なること。これらが「荒野」に関する誤解を生んでいる。

 ここまで考えて、改めて「いましばらくは荒野で」と題した、ぼくの気持ちを述べたい。果たして、ぼくは見渡す限り無人の荒地で、孤独を噛みしめながら神の声を聴くように研究しているのか。砂漠の修道士然として労働に苛まれながら研究と執筆を進めているのか。否。

 イザヤ書の記述、「荒れ野」のイメージを順当に引き受ければ、ぼくは砂漠ではない牧草地でベドウィンのような隣人に囲まれながら、めぐる季節を過ごしている。たしかに乾季は厳しい。しかし、やがて美しい雨季がやってくる。花が咲き、水が流れる。谷川の流れを慕う鹿のように、与えられた分によって生かされていく。

 「荒野」を誤解し、イザヤ書の記述を誤配することは、今回に限っていえば、少々哀しいことになってしまう。なぜなら、この世界、この土地を荒涼茫漠とした砂漠だと勘違いしてしまうからだ。ベドウィンのような隣人があるにもかかわらず、自分を砂漠で孤独に懊悩する者と錯覚してしまうからだ。

 そういえば、何年も前に「主は道をつくられる」という現代讃美歌があった。歌詞なんぞに文句をつけるのは老害極まりないが、諭し窘めることもまた老害の仕事である。だから初老のキリスト教徒として言おう。

 はたして、彼らがいう「道」とは何だろうか。本文を確認することなく、勝手に作り上げたイメージの中で見えてくる「道」とは、どんなものだろう。めぐる季節にも隣人にも気付くことのない人間が「荒野に幻視する道」――それは現地の生態系も人々にも一切配慮せずにコンクリートを流し込み、アスファルトを敷くような蛮行ではないのか。

 少なくとも、ぼく自身についていえば、豊かなミドバルで、神のダバルについて隣人から教えられたい。だから、NASAの科学者たちの忍耐をみならって、いましばらくは荒野で過ごそうと思う。そして、これこそが、より誠実かつ深化した意味での「聖徒の堅忍(Perseverance of the saints)」ではなかろうか。

 さて余談ながらもう一言。上掲の歌は、聖書を歌おうとしているのに、本文を無視しているので失敗している。残念ながら上掲の歌よりも、ガルパンのOP&EDのほうが期せずして福音を示している。「Dream Riser」「Enter Enter Mission!」「Piece of youth」「Glory Story」と並べただけでも、若者が自らの夢によって立ち上がるも神の召命に囚われて、若き日をささげ、やがて神の栄光を知るというキリスト教の根幹が描かれている。「多様な声優的伝統としてのガルパン」は「多様な聖書的伝統としてのキリスト教」を暗に担っている。これについてはTV版、劇場版が旧約聖書と新約聖書に対応していることも述べなくてはならない。また最終章の読解もあるが、ここでは措いておこう。以上、מדברとדברの語根が繋がらないことについて述べた。

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