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菅圓吉における「基督教の本質」

 菅圓吉(1895-1972)は、聖公会・司祭でのちに立教大学名誉教授となった。京都帝大を経て、立教大学の礎となった人物である。社会的キリスト教から弁証法神学に転じてバルト研究を残した。戦後「日本基督教学会」の創立に関して、戦前の研究について振り返りを残すなど精力的に活動していた。J-STAGE「基督教学会の成立にいたるまで」『日本の神学』第2号1963年

 先日、後輩に誘われて百万遍の古本市に立ち寄り、菅の著作『基督教の転向とその原理』開拓社/1930年を何冊数百円の捨て値で買った。菅の名前は知っていたが詳しくはなかった。金を落として拾ったついでに検索し、遠い先輩であることを知った。

 一言申し添えるなら、入手した古本は、どうやら顕真学苑(旧親鸞聖人研究館)の除籍本であり、寄贈印には「六年九月二七日 小谷徳水」とある。ざっと検索したところ、小谷は多数著作を残し、仏教音楽に関わりがあり、ハワイ開教区で活躍し『中外日報』とも関係があった。

 顕真学苑は、真宗本願寺派の仏教学者にして京都市議・参院議員も務めた梅原真隆(1885-1966)が設立した研究機関である。おそらく小谷から梅原へ寄贈された古本が、何の因果か、彼らの同時代人・賀川豊彦(1888-1960)を研究するぼくに落手した。

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 話を戻す。菅圓吉(1895-1972)における「基督教の本質」である。当初本書「基督教の転向とその原理」はマルクス主義等の「転向」問題を扱うのか、または、いわゆる「回心体験:born again」の分析かと思って手に取った。ところが、読み始めてみると違った。まだ冒頭2章「基督教の本質」「基督教の本質今一度」を読んだのみであるが、どうやら本書は菅なりのキリスト教入門、菅なりの信仰告白である。以下、簡潔に紹介したい。なお旧字はなおし、適宜かなに開いた。

 キリスト者はいたずらにキリスト教の死せる形骸を抱いて眠れるごとく独善的アヘン的自己陶酔に陥ってはいないか。よくよく、キリスト教――生ける力としてのキリスト教――とは何であるか。時代に目覚めたキリスト者、わけても若きキリスト者はどこへ行くべきか。本書はこれらのキリスト教当面の重大問題に対する私の忌憚なき批判であり、たいそうな告白である。しかもそれは単なる一時的な思い付きではなくして、貧しいながらも私の体験とそれに向けられた神学的、宗教学的思索の結果である。(中略)
 本書の大部分は、私が種々のところで――主としてキリスト者の本質の問題を中心として――話したものである(中略)ただし「教会の没落」と「事故の救いより社会の救いへ」とは私が軽い気持ちで筆をとったもので講演ではない(中略)「宗教体験の構造とその分析」はある大学の学生のためにした講演の草稿を後で整理したものであり、一番最後の「宗教と文化」とはヒツバード・ヂャーナルに出たミアル・エドワーヅの『価値経験としての宗教』という論文の自由な翻訳である。(中略)
 キリスト教が動くとか神が動くとかいうこともヘーゲル的に物を考える人々に自明の真理であろう。私は主としてトレルチの思想を祖述し、さらにはウオツバミンやオットーにも負うところが多い。したがってファンダメンタリストたちからの批評や悪口は私は当然これを予期する。しかしこれに答弁することは返って野暮であろう。

 上掲「序文に代えて」抜粋には、菅の立場が明確に表れている。また下記の第一章抜粋には、彼の考える「キリスト教の本質」が動的であることが明記されている。その様子は、時空間における同時多発的なスパークである。神の火花は、そのまま神の創造的生命の躍動であり、人類において生長する継続的創造そのものである。

 一体神を知り尽し神そのものを見尽した人は何処にあるか。人間の経験の中に這入る神は神の火の火花に過ぎない。我々は火元そのものを見る事は出来ない。且つ又その我々の中に散る神の火花はいろいろと違っている。従つて我々の経験する神はいろいろの姿に動いている神である。(中略)
 神は聖書を通じ、伝統――歴史――を通じ我々現代人に働きかけてくるのである。それゆえにキリスト教の本質とは何かといわれるなら、私は聖書と伝統と現代意識の三つが巴文字に入り交じって、ここに現代のキリスト教の本質がつくられるのだと思う。キリスト教の本質は、そのまま受けとればよいようにチャンと出来上がっていない(中略)
 キリスト教は力の宗教である。重荷を負いぬく力を与える宗教である。ジッと休む宗教でなくして活発に動く宗教である(中略)キリスト教とは神の創造的生命の流れに飛び込んで神と共に働くのである(中略)神は我々を通じてキリスト教の本質をつねに新しく創造し給うのである。

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 この抜粋で管のキリスト教理解は明瞭に把握できる。彼は「基督教の本質今一度」において続ける。

 まず管にとって「本質」とは「それ自体/~そのもの」というべきものである。しかし、そのようなものは存在しない。たとえば「動物そのもの」である動物はいない。犬や猫に分岐する。同様に、人間も宗教もキリスト教も、時代と場所によって「本質」と見えるところは違う。

 必定、管にとっての「真理」は、聖書とキリスト教に関する地域・時代・個々人毎の「解釈/確信」となる。それゆえ「真理」は時代を通じて、告白せざるを得ないものとして普遍的に存在している。そして告白された神は、以下のような存在だ。

 神そのものを見つくした人がありましょうか。我々はよく聖書と人間の理性とだけで、神の全部を知り尽くせるように思っているが、大宇宙の根本である神そのものを、我々のようなちっぽけな人間が知り尽くしたとどうして云えましょうか?宇宙とは地球だけをいうのではない。地球は太陽系の中の一つの星にすぎない。宇宙とは地球のごとき星を七つも八つも持っている太陽系の幾百万をいうのです。夜半、我々の見る銀河はその太陽系の集まりであるそうだが、そういう大きい宇宙、人間の見つくしたことのない大宇宙の中の小さい地球上の人間は、これをたとえれば太平洋の中の一つの波の上にできた一つの水泡位のものであるが、その水泡が太平洋全体を知り尽くしたとは云えないでありましょう。
 神そのものは、測り知るべからざる者、人智の及ばざる者である、その神についてかれこれいうのは、人間の誇大妄想狂である。

 ここに以下に示す詩篇8篇に対する管の共感をみることは正当であろう。『我、汝の指のわざなる天を観、汝の設けたまへる月と星とをみるに、世人はいかなるものなれば、これを聖念にとめたまふや、人の子はいかなるものなれば、これを顧みたまふや』――管はその他にも歴史や具体例をひもといて様々に説明をするが、続けて要点のみを抜粋する。

 キリスト教は今や在来の個人主義を捨てて社会化すべき時が来ている。今までのキリスト教は個人的、主観的、内向的であったなら、今後のキリスト教は社会的、客観的、外交的にならねばならぬのであります。
 かくしてキリスト教の本質を、真理を把握することは自ずからまたその本質を、真理を新しく生み出すことになってくるのであります。

 個人主義化と社会化に関しては、とくにプロテスタント批判の文脈で述べている。そして、このように結ぶ。

 然らば最後に今後のキリスト教をばいかに定義すればよいか(中略)
 一、神とは宇宙の不断の創造的生命力である。
 二、キリスト教とはイエスに発せる神の国実現運動すなわち神の歴史的躍進である。
 三、救いとは神の国実現運動に参加することに他ならぬ。
 四、信仰とは学問的真理と共に成長発達するのであります(中略)
 本質の問題は今日今晩だけの問題ではなく、我々一生の問題です。我々の生命を投げかけて把握しなければならない問題であります。我々の中に生きて動いている神の生命力を如何に成長させ、いかに発展させるかは、我々自身の努力にまつところであります。『我らは神と共に働く』のだというパウロの名言を共に体得したいと思うのであります。

 戦前に菅圓吉(1895-1972)が観た「キリスト教の本質」——それは宇宙それ自体のダイナミズムに重なる創造的生命力であり、人類の意識/聖書/歴史が織りなす成長し続ける神の継続的創造の世界だった。

 言うまでもなく、このあたりは大正生命主義との関わりが出てくる。以降は専門的な議論になるので、研究発表や学会に譲りたい。

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